見出し画像

頼まれてもないのに。その23(議論と説得は違うよ)


おかげさまで今のところネット上で絡まれることがほとんどありません。日頃から「炎上するようなセンシティブなことを話題にしない」と心がけていることももちろんありますが、ただ単に「人に届くことを目的とした文章を書けてない」ということに尽きるのかもしれません。

多くの人に届けば届くほど、届いてほしくない人にまで届いてしまう確率が高くなる、ただそれだけのことだと思うようにしています。

人に届く文章……果たして本気で書こうと私思ってるんだろか。常に及び腰で書いているくせに、フォロワーもスキも増えないなあと首をかしげている、都知事的に言えば「暖房と冷房を同時につけている」状態のまま、ここまで来ています。

だって面倒なんだもん絡まれるの。好きの反対は嫌いではなく無関心とよく言われますが、それでも嫌われるより無関心のほうがずっと楽。そう言いながらもやっぱり好かれたい。その点では炎上マーケティングの人達のほうが自分に正直で可愛いですよ。私のように関わっていただかなくて結構なんて顔をしながら自分の文章が読まれているか気に入られているかどうかをいちいち気にしているのは全く素直じゃない。

それでもやっぱり、絡まれるのは嫌です。

だって炎上している人達のコメント欄を見ていると、絡んでくる人って「やりこめる」目的の人ばかりですもの。勝ちたい人達ばかりなんだもん。こんな人たちに絡まれて平気でいられる自信ないよ。

ーーーーーーーーーーーーー

人の傾向って、大きく二つに分かれるなと思っています。

一つは、目的や理想、ビジョンがあって、それを実現するにはどうしたらいいかを常に念頭におき、行動されているタイプの人達。

もう一つは、いま置かれているコミュニティの中で、より優越した居場所を確保したいタイプの人達。

今あなたに物申している人が果たしてどちらのタイプなのか、それを見分けるだけでも随分気持ちが楽になるように思われます。

ただ見分けるのにちょっと厄介なのは、後者のタイプも高邁な目的や理想を口にしていることが多いということです。よくできた偽物は一見本物と見分けがつかないもの。

ただ後者にはほとんどの場合、語れるほどのビジョンはないと思いますよ。ビジョンがないということは、彼らの目的や理想は誰かからの借り物だということ。借り物だから、自分の内側から出てくる言葉で語れないんです。

前者のタイプとお話するのは楽しいです。同じ目的と理想を見つめながら、それらを実現するための手段を議論できるのですから。

でも後者のタイプは。私たちの話を否定するところから始まり、彼らの優越性を誇示するような話ばかりを一方的に聞かされたあげく、己の愚かさと敗北を認め、有能なる彼らの前にひざまずくよう圧をかけられる。全く楽しくないです。

前者のタイプとはたっぷり時間を割きたいと思いますし、頭もフルに回転させたいと思います。それはなにより私のためになることだし、もしかしたらやりとりを介して少しはお相手のお役に立てることもあるかもしれません。

後者のタイプに対しては、関わったとて当方には何も得るものがありませんので、相手を過度に喜ばせず、かつ恨まれないよう、どううまくあしらうかを第一に考えます。挑発に乗らぬよう、勝負の土俵にあがったぞと少しでも相手に思われぬよう、細心の注意を払います。

ーーーーーーーーーーーーー

私たち、議論をしているつもりでいて、実はただ説得を試みているだけだということが、往々にしてあります。

持論をふりかざし、啓蒙し(「くらきをひらく」んだよ。無知ゆえの間違いを犯しているあなたを賢くして差し上げますって、これほど相手のことを蔑みバカにした言葉はないと思ってるよ)、私たちにとって望ましいと思う言動をさせようとする。これは議論ではなく、説得。

議論っていうのは、持論ではなく、手段を話し合うものです。何を解決するべきなのか問題意識を共有した上で、どのような手段が最も適切なのか。メリットはなにでデメリットはなんなのか。どうやったらデメリットを最小限にできると考える? そこには感情の差し込む余地などなく、事実だけが並べられていくはずです。

つまり議論とは、正しさがどちらにあるか、といった勝ち負けを明らかにするものではなく、数多くの提案を、現時点においてもっとも適切な一つの手段に収束していくためのプロセスであるはずです。議論とは、いまここにないものを生産すること。

比べて説得とは、正しさがどちらにあるかの言い争いです。いずれも自分たちの側が唯一の正義だと信じて疑いませんし、その正義を否定する相手は互いに悪以外の何物でもありません。双方が折れなければ最後は力づくで勝負をつけるしかありません。説得の行きつく先は恫喝、暴力、そして罰です。説得とは、悪なる相手の消滅をただひたすら願うこと。

ーーーーーーーーーーーーー

議論は楽しい。いろんなことを教えてほしい。いろんな提案をしあって遊びたい。そこから生まれてくる何かを心待ちにしたい。だから本心は、私だってもっともっと、人とかかわりたい。

だけど説得は背筋が凍る。怖い。だから嫌い。避けたい。ならばこのまま見つからないままでいたい。

令和という時代、あるいはもっと大きく21世紀という時代、目の前に繰り広げられている「それ」が、果たして議論なのかそれとも説得なのか、正しく見極めて身を守る時代なのではないか、と思ったりします。



武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。