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頼まれてもないのに。その21(当たり前からの軌道修正:若き学生さんたちへ)


コロナ禍や 新入生は なに想う

まさかこんな形で「学問するとはどういうことか」が問われる世の中になるとは思いませんでした。

大学という学びの場から離れてもう10年以上経ちますが、とりわけ新入生の頃を思い返すにつれ、つくづく学ぶということをなめてたなぁと思います。

なめていた、というより、学ぶのが当たり前だと思っていた、と表現したほうが的確かもしれません。幼稚園でお遊戯をしていたらいつの間にかランドセルが準備されていたように、年齢を重ねさえすれば中等・高等教育、そしてその先の社会生活と、こなすべきライフプランの選択肢が次々と目の前に並べられていくものだとばかり。

少なくとも私は「なぜ勉強するのか」という問いをすることないまま大学に進学し、最終的にそこでつまづくわけです。離れてみて初めて、大学というものが一体どのように利用しなければならない場だったのか見えてきたという、とてももったいない話です。


今の日本はそもそも義務教育の段階からして学ぶことが空気と同等の扱いすぎます。学べて当たり前。一人の子が義務教育9年間を学ぶために一体どれだけのお金や労力が費やされているか、大人たちはそこまでしてなぜ子どもたちに学ばせようとしているのか、何の思いも疑問もめぐらせることないまま習慣としてなんとなく学校に通い続ける日々。

気づけば「つらいなら無理して学校に行く必要はない」という人たちまで現れてしまう始末。いやこれも大事ではあるのです。逃げることによって救われ、今後も救われる子どもたちはいっぱいいるはず。だけどこれはあくまでもいじめがあった場合に命を最優先した救急処置。安易に適用すべき行動パターンじゃないです。そもそもいじめがなければ与えられていたはずの学習機会が奪われたことに対しては誰も何も物申さないのかなと。

多くの子どもたちにとってもはや学校が生活習慣の一部でしかなく無理して通うほどではない場所なのであれば、学校そのもののありかたを見直さないとまずいのではないかと思うのですが、どうなんでしょう。親御さんが働いている間安全に預かってくれてお昼ごはんも食べさせてくれる上「ついでに勉強も少し教えてくれる」程度の場所なんですかね。

学ぶことに意味を教えてあげられる大人たちがいないと、私のように漫然と年を重ねてしまうことになります。学問は修めていてもその本当の価値をかみしめたことがなかったがため、あんなに時間がたっぷり与えられていたにも関わらず、己にしかできない学問の生かし方を真剣に考える機会を作ろうとしなかった。無知は損失です。

そういう意味では今回のコロナ禍、「学びの機会を唐突に奪われた」子どもたち若者たちは確かに気の毒であるのですが、これまで漫然と当たり前のように目の前にあった「学ぶ場・学ぶ機会」の重要性を、よく考え、かみしめてほしいと思うのです。こんな形で考えなおす機会を与えられることが幸せだとは思えませんけれども、人は悲しいかな、唐突に奪われることでしか気づけないものです。

若い人たちにはぜひ「これまで当たり前のように学べていた日々がいかに奇跡であったか」に気づいてほしいです。気づくのが早ければ早いほど有効な軌道修正ができますし、それぞれの身の丈にあった学びの方法、学びのレベルを選択していってもらえたらいいなあと思います。


で、大学。今年の新入生は本当に気の毒としか言いようがありません。高校から大学で学びの質が一挙に変わるんですよね。そのカルチャーショックに慣れるところから始めなければならないのに、オンライン授業って。

高校まではまあ先生の言う通りやってればなんとかなるんですが、ここで何を学びたいのかを意識して自発的に動かないと何も進まないのが大学なので、このあたりの切り替えを新入生の前期かけてやる、という感じでしたかね私は。オンラインだとこのあたりの切り替え感覚、身につけるの難しそうに思えてしまいます。

また大学という場は人脈作りの場でもありますから、講義だけ受けられればということでもないです。私はここをおろそかにしてしまった……その場その場での友達はいて楽しかったんですけどね。あからさまなのは不快感しかわかないから最終的にはダメになっちゃうと思うけど、大学って人材の宝庫だから、後々につなごうという打算性、多少は持ち合わせていたほうがよいと思いますよ。

まあ後々の人脈なんてのは結果であって友達といること自体を日々楽しめばいればいいと思うのですが、人脈として友達を考えることは単なる打算にとどまらず「自分が今後どのような職に就き、どのように仕事を展開させていくか」の見取り図を描くことにもつながると思いますから、大事ですよ。あ、親友や恋人は別ね。

とにもかくにも新たに友達を作るには一緒にご飯食べたり飲んだりサークル活動したりといった普段からの何気ない関わりが欠かせないですから、コロナ禍では困難ですよね。

そのように考えると今年に限って言えば入学早々一年間の休学を決めるのが最もかしこい選択だったのではと思いました。4月の段階で決断できた人は大物です。当時の私には無理な決断。そこまで見通せないし思い切ったことできないや。

ただ、ほんと、一つ言わせてほしい。今年が新入生という年回りの不運に当たった若者たち全般に痛く同情します。でもね「入学早々コロナ禍で勉強もできず友達も作れずかわいそうな私」をアピールして被害者顔する若者たちには、まったく共感しないから。

普通に大学進学できて、普通にキャンパスライフ送れる、これ自体がものすごく恵まれていることだし、当たり前じゃないから。

その当たり前が奪われたことには同情します。でもそれを「なんで私だけ」って泣きべそかいてるようなのには、勝手に泣いてなさいとしか思いません。これまでが奇跡レベルで恵まれてただけってことに気づいてほしい。

これは、私含めこれまで何の迷いもなく大学に進学し社会に出ることができた日本人全体に言えることだけど。

今までが奇跡だっただけなんだなあと。恐ろしいほど順調だっただけなんだなあと。

これまでだって個人レベルでは唐突の不運でいろんなことを諦めたり延期させられたりしてきた人、ざらにいたんだと思います。でも私たちがそれに無関心だっただけ。それが今回、広範囲に襲ってきただけ。

高校までは先生の言うことに従っていればなんとかなりました。でも卒業後は大学生に限らず、各種専門学校生、社会人、皆、自分の頭と足で生きていきます。「私だけかわいそう」と泣いてても構ってもらえるのはせいぜい高校生まで(いや高校生でもちょっと……)。だいたい選挙権を有する年齢の人間がいつまで上げ膳据え膳に頼っているのか。

学問だけなら基礎的な文献を読みこなすだけであれば一人でもできます。本当に学問をしたいのならやりようも道もいくらでも。やれる範囲での試行錯誤を重ねていく中で「学問をする上で一人ではできないこと」「人の助けが必要なこと」等を自分なりに精査しておくといいかもしれません。

見舞われた不運に嘆いているだけなら時間はそれこそ無駄に過ぎていきますが、工夫をし全力の試みに割いた時間であれば今後の人生において一つとして無駄にならないはずです。

コロナ禍、奪われてしまったものに対し恨み節をいうのではなく、だったら何をすべきか、何ならできるのか、自分で考え、見極め、立ち向かうしかありません。若いとはそういうことです。

学びに対して「なめた」ところがあるのなら今のうち、若いうちに軌道修正してほしい。脇道に落ちたまま戻ることのできなかった元学生からのアドバイスでした。




武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。