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頼まれてもないのに。その26(評価されることについて考える)



商品としての文章が書けたらいいのになあと思います。

書いたものがお金になってくれる。人から見たらただの書き捨てのゴミではなく、売り物としての価値を世間から認めてもらえる。この日々の執筆行為がただの時間浪費ではなく勤務時間として世間様にお伝えできる。

そんな日が来てほしいと、やはり本心では思います。

だけどそのためにはより多くの人に必要とされる文章を書けるようにならないといけません。つまり、より多くの人から「お金を払ってでも読みたい」と思ってもらえる、世の中のニーズに応える文章。

それは必ずしも「今読みたいと思っている」ものである必要はなく、それこそ次々と繰り出されるApple製品たちのように「こんなの読んだことないでしょ、でもこれ読みたいでしょ、でしょ」という巻き込む力であってもいい。マンネリ化した生活を変えるほどに強い影響を与えてくれるもの、未来に期待を持たせてくれるものにも、人は惜しみなくお金を出すから。まあ後者は一握りの才能ある人たちにしかできないことだけれど。

どのみち。

文章をお金に変えるには、自分ではなく、人を動かさなければなりません。人を動かすにはどうしたらいいか。人の気に入るもの、私がではなくその人が良いと思うものを書かなければなりません。

つまり、評価、です。評価の場に自らをさらけ出すしかありません。

先日のエントリで「評価」について思うところを書きました。

評価って人の言動を変えるにはかなり効果的なんです。少しでも行動心理学をかじったことのある方はピンとくると思いますが、望ましい行動を増やしたり減らしたりするのにほめたり罰をあたえたりというのは一定の効果が実証されているんですね。まあこればかりやってると「褒められたいから」「怒られたくないから」という動機だけで動くようになっちゃいがちなんですが。まあそれは置いといて。

文章をお金に変えたいと思うなら、なによりもまずターゲットとする市場に受け入れられる文章を書かなければいけません。どんな文章が受けるか、どんな書き方がいいか、最初は試行錯誤だと思いますが、やっていくうちに評判のいいものいまいちなものが見えてくるはずで、評判のいい文章をより増やし、より洗練させていくのが、まあまっとうな方法だと思います。

人気のある書き手さんたちの書いたものをたくさん読み、その文体や内容を吟味するのもいいでしょう。調査も大事。

でもそればかりに没頭してしまうと、売れるものを書かなければ、となってしまうと、「自分のこの考え方は人に受け入れられないから書かない」「この考え方は私のものではないけれど、みんなにウケがいいから、心地よくなってもらえるから、これでいこう」となってしまうかもしれない。

いやむしろそういう悩みの一つや二つ抱えてみたいもんです。

かといって。

今自分の中にあるものの風味を損ないたくないと意固地になるだけだとどうかというと。まあ9割9分、ただのへたくそで独りよがりな文章が延々と書き連ねられるだけなんですよね。評価がないとか極端に少ないってのは、もう単純に、そういうことなんです。読む価値なし、と。

でもねそういう「あらびき」「無選別」「久助」たちの中に面白いものが転がってることも確かにあって、でもそれはマニアによる趣味の発掘作業でしかないんですよね。あるいは「月曜から夜ふかし」がやってるあれです、再生回数100以下のYouTuberってやつ。珍獣観察。

評価から完全フリーな人ってのは、どこにも属さない人なんじゃなくて、どこにも属せない人なんです。

どこかに属しているという意識がある以上、大なり小なり評価を気にし、人からの評価に己の言動を微調整しながら生きているもんです。

私にだってそりゃ多少は。

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評価は「怯え」。この集団にいられなくなったらこの先、自分だけの力では生きていけないかもしれないから、評価に怯えるのはごく自然で当たり前のこと。評価に合わせるのも同じこと。切実な現実問題だから。

だからこそ、あまりにも無邪気に「私は人からの評価に振り回されない」と豪語できてしまうというのは、あらまあそれはなんという恵まれたご環境にいらっしゃるのだろう、と苦笑せざるを得ません。

評価に怯えなくていいというのは、軸がぶれてない証ではなく、評価されなくても別に困窮しない経済状況であり、かつ評価を求めなくてもそこそこ安全かつ平穏に生きていける環境にあるというだけなのであって、それってつまり幸運に恵まれているだけだよ、と。

これ、絶対忘れてはいけないことだと思います。思い上がっちゃいけない。

安全な生存を誰かが保証してくれているから、あなたが誰かの生存を守っているわけではないから、あなた自身は評価を気にせず生きていられるだけなんですよと。

集団に属して守られることと自分自身の素の風味を保ち続けることとはトレードオフなのだと思います。ただし属する集団が運よく寛容ならば素の風味は最大限生かされるでしょうしその結果これらは本来トレードオフだということを意識しないで生きていける、というだけのことだと。

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商品としての文章が書けたらいいのに。この文章が売れればいいのに。

でもそのためにはより評価してもらえる文章を書かなければ。評価してもらいたいのなら、自分本位の物言いではなく、誰にでも読みやすい文体と言葉遣いで、もっと丁寧に書かないと。いやいやそもそも、私が書きたいではなく皆が読みたいと思うテーマを探さないと。

自由に気ままにやりたいなら、そりゃお金はもらえません。でもお金にしないからこそ、自分一人が満足すればいいものをどれだけ書いてもいいということ。それこそ珍獣でいいという開き直り。いや、珍獣でいても問題なく許されるという安全な環境に今私がいるということ。

真に自由な表現は、お金にならないということ。

どのタイミングで不自由さを選ぶか…………

だけど結局このまま不自由さを選べないまま終わってしまう予感がしています。不自由さもまた、努力の先にしか抽選の機会がないとはいえ、幸運の一つなのですから。



武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。