レビューとしては使えない私の読書録 その2(『Z世代』原田曜平著・光文社新書)
<本の基本情報>
Z世代 若者はなぜインスタ・TikTokにハマるのか?
原田曜平
2020 光文社新書
<私の評価>
☆お気に入り度(1-5) 3
☆おすすめ度(1-5) 3
☆とくに誰に読んでもらいたい?
Z世代じゃない人たち、かな……
あるいは今の時代の流れになんらかの危機感を感じてる人たち
☆本の印象
マーケティング視点の強い本 フィールドワーク的 データ資料多し
副題に対する明確な答えが本文中にはなかったような……
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<今回のテーマ>
スマホとSNS時代の到来により
自ら故意に切り捨てていかない限り人間関係が無限に蓄積され続ける時代の本当の怖さについて
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
年は取ってみるもんです。最近とみに実感する驚きの変化。
若い子たちがバカに見えて見えてしかたがない。こんなバカばっかりじゃこの国の未来はなんと暗いものかと嘆いてばかりの私に気づいて呆然です。
おかしいなあ、30代の頃は10代20代の子たちなんてかわいい後輩にしか見えなかったんです。むしろ「私たちみたいなアホと違ってこの子らは賢いなあ」という好印象のほうが強かったのに。
これぞ加齢の恐ろしさ。あ、自分だけはならないって思ってるでしょ、みんなもなるからねー覚悟しとき。
しかもテレビを中心としたマスコミ各社様は、こういうどうしようもない「高齢者」(この件に関してだけいえば私もまさに高齢者ですぴえん)に媚びるがごとくそういう子たちばかりを若者代表のごとくわざと面白がって取り上げますから、ますます「今の若い子=バカ」の図式が完成されていってしまうという。うーん、良くない、良くないぞ。
Z世代。アメリカを中心とした欧米諸国で生まれた言葉。
1990年中盤、あるいは2000年序盤に生まれた世代を指すそうで、2023年現在では10代後半から30代手前くらいあたりがこの世代に該当するのかな。
日本と違い海外ではこの世代のボリューム感が無視できない大きさで、2019年世界におけるZ世代の人口占有率は32%であり、支出額的にも今後の期待が高まるため、今後の経済発展を見ていくうえで重要な世代とされているようです。
そういう点では海外目線が語るZ世代と日本目線で語るZ世代とでは若干ズレがあるかもしれないなあと、海外メディアを今後読む上では気を付けたいところです。
日本のZ世代。人口的には総人口の15%ほど(2018年総務省の人口統計)なのでボリューム的には海外ほどのインパクトはありません。
日本におけるこの世代の最大の特徴は「スマホ第一世代」であるということ。
このことが今回の私のテーマである「人間関係の無限の蓄積」に深くかかわってきてしまいます。
この本自体はマーケティング視点が極めて強く、今後の日本経済の上客としていかに彼らのお財布を動かすかというところに話が終始しており、「だからさ、その視点(若者を後継者としてではなく消費者としてしか見ていない)が今の日本を根本的にダメにしてるんですってば…」と嘆きながら読み進めていたんですけれども、それはそれとしてこの本に挙げられている数々のデータは実に興味深いものばかりでした。
そうね、当たり前だけどこの子たちは突然変異じゃない。私たちとの連続性の先にこの子たちはいるんだなって。生まれた時からテレビがあった私たちの時代にパソコンとガラケーが普及して、それらがいつしかスマホに置き換わって、だから今の若い子たちはこうなんだね、と。
Z世代の生態をかわいらしく思える目線をもらえたことがこの本を読んだ一番の収穫ですかね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本題です。
この本にとってのメインではないけれど、私が「うわー」と思わず天を仰いでしまった箇所がこちらです。実はこの現象はZ世代ではなく、彼らのお兄さんお姉さん世代にあたるゆとり世代から始まっていることのようです。つまりスマホではなくガラケーの出現により「技術的に」可能となってしまった事態。スマホの出現により、それがさらに加速したでしょうね。
人間関係の自然消滅がなくなった。
つまり中学から高校、高校から大学・社会人、独身から既婚者へと人生のステージが上がっていくたび、自然消滅的にリセットされていた人間関係が、ガラケー出現以降、一度つながったものは継続可能になっていったというのです。
うん、確かにそうだ。mixi、各種SNS、極めつけはLINE。
著者はこれを「フロー型の人間関係」から「ストック型の人間関係」へと変化していったいう表現で指摘しています。
この部分を読んだとき、私はこう読み替えていました。
うわぁ、今の若い子たちっていくらステージアップを重ねても人間関係のフェードアウトができないんだ……
若い頃はね、友達との縁が疎遠になっていくのが悲しかったです。
せっかく仲良くなった友達なのに、距離が離れたくらいで交流がなくなっていくのは悲しいな……どれほど交流続けようとしても、いずれどちらかあるいは双方の熱意が冷めていくんですよね。
でもね、むしろそうじゃなきゃいけないんだと。
フェードアウトが起こることでいろんなものが勝手に整理され、その時そのときでほんとうに大事なものだけがちゃんと残るようになってたんです。
フェードアウトは悲しい。だけど本当には必要とし合ってないなら、フェードアウトしていくことが実はお互いのためでもある。
縁が完全に切れたわけではないからね。ご縁さえちゃんとつながってればどこかで必ず会えるからね。
若い頃にはわかんないことです。人は変わる。私もあなたも。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今の若い子たちが「コスパ」「タイパ」好きなのもわかります。労力の無駄、時間の無駄。無駄なものは極力切り捨てていくことが是の価値観。
だってそうでもしないと、とてもじゃないけどこなせないでしょ。大量どころではない情報と作業の中で24時間を泳いでいかなければならないんですから。
思春期にガラケーもスマホもなかった私たちの世代には到底わからないつらさだろうなあ。半径数メートルの人たちとだけ遊んでりゃよかった私たちの情報量作業量と、いつまでも切れずに蓄積され続けるたくさんの友達から嫌われないよう気を遣い、それこそ下手すりゃ友達でもフォロワーでもない全く知りもしない全世界の視線にも協調しながら生きてる人たちの情報量作業量気遣い量の違いたるや。
私無理。今の若い子たちの生活無理。ガラケーもスマホもなくてよかった。
この本や他の本、ネットでいろいろ見聞きするものから読み取った今の若い子たちの特徴。そりゃそうなるよね。
人の邪魔をしない(私の邪魔をしてこない)短く明るい動画、相手の気持ちを害さない(私の気持ちを害してこない)きれいで楽し気な写真たち、長々とした文字は邪魔、ツイ廃ご法度、投稿少な目で決め打ち。
人がいいねしたものがよいもの、人の気分を害するなら自分の意見は出さない。つらさはなんでもぴえんのひとことでごまかし。細かな感性の違いを問わないエモさという漠然とした感じで人とつながる。
つながらなければいけない人たちが多すぎる。
取り込まなければならない情報が多すぎる。
どこに相手の心の地雷が埋まっているかわからない。
それらを拒絶するには、どうしても逃げたいなら、ブロックするしかない。自ら手を下し、能動的に切っていくしかない。
それって人間関係の最終手段なんだけど。
今まで蓄積したものをもう切れないのはしかたない。切ったものもあるけれど、もうあんな嫌な思いもしたくない。だから新しい人間関係や考え方でしたら、もう最初から要りませんよと。取り込みませんよと。
ひょっとしたらそういうこともあるのかなあ……なんてね。
もしかしたら今の若い子たちが「おじさんたちとの飲み会」を嫌う理由の一つはこれじゃないのでしょうか。
飲み会してる時間がもったいないというのももちろんあるでしょうが、それよりなによりおじさんたちのご機嫌を取れる心のゆとりがもう残ってないんじゃないのかな。
いろんなものをすでに抱え込みまくっているから、たとえおじさんたちが彼らにない知恵や知識を提供できたとしても、新たなものを取り込む空きスペースがもうない。
それってとてももったいないことなんだけどなあ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
人間関係って疲れるものです。
みんな多かれ少なかれ気を使って生きています。
だから人間関係は、もちろん個々人のキャパシティによって違ってきますし、仕事をするにおいてはいざとなった時に互いに助け合える程度の薄い人間関係をどれほどたくさん持っているかが重要ではあるのでしょうが、少なくともプライベートにおいては、自分が大事にできる、振り回されても許せる(むしろ楽しめる)人数の範囲内でおさめておくことが幸せと平和の秘訣だと私は感じています。
私たちは子どもの頃、無邪気に歌っていました。
「一年生になったら 一年生になったら
ともだち100人できるかな」
年を取るとわかります。
友達100人もいるってのはね、実は地獄なんだよ。
本心ではそこまで大事でもない人たちに、ことあるごとに振り回される人生ほどつまんないことはないんだよ。
人は人、自分は自分。
その境目をつねに曖昧にしていないと今のネット社会では安全に生きていけない。でもそれって本心ではどういう心境なんだろう。
フェードアウトのできない今の時代。いよいよ我慢が効かなくなったとき急速に過激な方向性に舵を切る可能性、この世代に関しては否定できないのではという怖さを感じてもいます。
武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。