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レビューとしては使えない私の読書録 その3(『世界地図の中で考える』高坂正堯著・新潮選書)

<本の基本情報>
 世界地図の中で考える
 高坂正堯
 2016 新潮選書

<私の評価>
☆お気に入り度(1-5)    4 
☆おすすめ度(1-5)     3
☆とくに誰に読んでもらいたい?   
 大学進学を目指す高校生
☆本の印象
 よほどのきっかけでもなければまずはとっつくことのない本。しかしある程度の文章を普段から読み慣れている人でしたら平易に感じられると思います。
 グローバル化した世界の中で過去起きてきたこと、そして現在進行形で起きていること、これらは果たして善か悪か。彼らが何をしようと試み、実際に現象として起きたことはなんだったのか。
 文明と文明とが出会い、時にぶつかりときに融合しあうとはいったいどういうことか。

 なおこの本の帯にある「『悪』への免疫を高めよ。」や背表紙にある「なぜ人間は『悪徳』を取り込む必要があるのかー?」という煽り文句ですけれど、これ適切なんですかね。著者の他の本は存じませんが少なくともこの本においてはそこまでのことは書かれてないです。
           
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<今回のテーマ>
 人は悪いことしようと思って悪いことしたわけじゃないし、良いことしようとして良いことしたわけでもない。
 「関わるか関わらないか」は選べない。「関わらずにはいられない以上、私たちはここで何をすることになるのか」が問われているというお話。

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 この本自体は1968年刊です。著者の没後20年を記念して復刊されたもの。今年が2023年ですから50年以上前に書かれた評論集です。
 この50年で当然時代も激変しています。そんなに古くに書かれた本を今読んで何をいまさら、と思われるかもしれません。
 ひとたび手に取ってみるとそんな疑念はすぐに吹き飛びます。人類にとって普遍の原則が語られている本というのはたかだか50年程度ではまったく古くはならないし、指摘を受けてむしろこの本を積極的に古くしなくちゃならないはずだった私たちはこの50年間ろくずっぽ変われていないのです。

 評論集ですがそれほど堅苦しくなく、エッセイ的要素も交えた自在さが随所にちりばめられているためか、見た目よりも読みやすい一冊でした。

 大学進学を目指す高校生には現代文読解の訓練も兼ねてぜひ読んでもらいたい一冊です。大学に入る前にこういう視点の軸をひとつ備えておくことは来たる4年間の学びをより深いものにすると思います。

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 人と関わるってどういうことだろう。
 単純に仲良くなりたくて関わることもある。詐欺を働く人たちみたいに最初から奪う目的で近づく人もいるでしょう。無知な人たちに正しい世界を教えてあげたいなんていう人もいるでしょうし、より多くの人たちを巻き込んで協力し合って一緒に面白いプロジェクトや儲かるビジネスを開発していこうなんてのもあるでしょう。どっちが上か下か、支配と従属を争う関係もあります。

 国と国同士、民族と民族同士も基本的には同じで、利害目的あり、善意あり、支配欲あり、いろいろ。
 この本ではタスマニア人の滅亡の原因が何にあるかを考えるところから始まり、しょっぱなから文明の交わりがもたらす最悪のバッドエンドを突き付けられます。
 ここでいったん目先が変わり、文明先進国の大親分、アメリカの話になります。アメリカが大国と化した力の源が何に由来しているのかをまず分析したのち、日本でうまくいったことがベトナムで失敗したのはなぜかを問います。
 一方でもう一つの大国の退散の例としてイギリスを挙げ、なぜイギリスはインドから手を引いたのかを考察し、他国の例も加えながら文明による介入と限界についてさらに考えを深めていきます。
 ここでまたまた目線を転じ、今度は文明介入されていく側の立場にあった明治期の日本を振り返ります。今の自分たちより明らかに力のある国々の文明を突き付けられ、そうはいっても変わらなければ生き延びられないとわかっているとき、人々は既存の文明とどう向き合い、どう揺れ動いてきたか。
 最後に「良かれ」が良かれにならない事例の一つとして食糧問題を例に取り、先進国による介入の難しさとそれでも介入し続けなければならないジレンマを指摘し、最初から悪だとわかっていてやる介入などないのだということ、良かれと思ってやったことが結果的には悪い結果をもたらすことが多々あるということを指摘します。

 細かいところまで追えてませんが、ざっくりこんな感じで論が進んでいきます。
 
 だからといって文明と文明がもうこれ以上交わらずに済むのか。
 時計の針が進み続ける限り、文明と文明とは否が応でも交わり合い、衝突し合い、融合し合うことを避けられないのです。
 私たちが他者とのかかわりなしに生きていけないのと同じです。たとえ人生の先に出会う他者のせいで滅びる未来がもし控えていたとしても、私たちはやはり前に進み続けなければならないということ。
 私のやったことが未来のあなたの害になったとしても、それでも私はあなたと関わっていかなければならないというジレンマのもと、冒すかもしれない過ちを少しでも緩和したいという一縷の願いのもと、私たちはより多角的な視野と様々な立場から捉えた情報を頼みの綱として、明日の私が何をするかをそのつど決めていくのでしょう。
 国と国も同じこと。介入する側もされる側も。

 だけどその絶え間ない緊張に耐えられる人たちばかりではありません。
 その結果こういうことが起きるだろうと筆者は予測します。
 
 世界が混沌で複雑であればあるほど、一部の人々はわかりやすい答えに飛びついていくだろうと。

 強力な教義を信ずることによって人々は混沌とした世界像の代りに、光と闇に二分された明快な世界像を持つことができる。それ故、暗黒の勢力を打倒するという目標を持ち、そのために努力することができる。世界に光をもたらす勢力に属し、そのために貢献しているのだという帰属感を持つことができる。(中略)昔から、人間はさまざまな時期に、さまざまな形で教義を狂信し、それによって自己を傷つけてきた。二十世紀の末はそのような時代になるかも知れないのである。(p.288)

『世界地図の中で考える』より

 21世紀、私たちはまさしくその時代を迎えています。
 一方ではポリティカルコレクトネスを掲げる極左活動家と薄っぺらいお利口さんたち。
 対極には自らを光と称する陰謀論者と生きる目的に渇望しきった信者たち。
 互いが互いを叩き潰し合っているはずなのになぜかかえって増殖していく。方向が違っているだけでいずれもまさしく狂信の全盛期です。

 しかも、狂信の逆の側には、混沌に圧倒されてしまった結果である懐疑主義が待っている。(中略)果たしてわれわれは愚かな狂信と暗い懐疑主義の中間に踏みとどまることができるであろうか。(p.288)

『世界地図の中で考える』より

 そしてその一方大多数の人々は、来る日も来る日もテレビやネットの中で繰り広げられるこの手の空騒ぎに完全に辟易しきっています。どっちの理想もどっちの理論も嘘くさい。真実とフェイクの区別自体がもうどうでもいい。なにがファクトチェックだ。どちらも目の前からとっとと出ていけ。
 私たちは私たちの今が豊かであるならなんでもいいのだとばかりに、令和の今、私たちの多くは自分の好きなものだけに没頭し、気の合う仲間だけを丁重に選別し、過激な人たちを遮断するのです。何も信じる必要がない、だってどれもこれも勝手なことを言ってるだけだから。

 どこにも正解がない世界では、みなが嘘しかつかない世界では、私は私にとって心地よい声だけを信じていればいいのだと言わんばかりに、多様性ではない、ただの排外な小さな殻があちこちにできていくのです。
 暗い懐疑主義の行きつく先を私たちは今この時代に見ている気がします。

 「愚かな狂信」と「暗い懐疑主義」の中間とはいったいどこなのでしょう。私たちに今もっとも必要なのはこの中間点を探し当てること。
 既存の目立ちたがり屋どもにこの役割を求めても無駄です。
 当然ながら私に頼っても無駄です。私も途方に暮れています。
 誰も答えをくれません。ならば一人一人が取り組むしかないでしょう。

 狂信者の一味に下ってうたかたの使命感に酔いどれ人生を終えるか、無気力のまま今を楽しく生きて死を待つか、それはそれで個々の人生、一つの選択肢だと思いますけれども。
 
 中間点を探す作業。
 これからの若い人たちに課せられた使命です。
 まずは現在地をしっかり見据えること。知がなぜ必要なのかを理解しておくこと。
 そのためにはこういう本が役に立ちます。



武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。