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子どもを裏切らない大人になれるか


とある小説を読んで、消化不良に陥ってます。タスケテ
ブレイディみかこさんの最新作「両手にトカレフ」。

寒い冬の朝、14歳のミアは、短くなった制服のスカートを穿き、図書館の前に立っていた。そこで出合ったのは、カネコフミコの自伝。フミコは「別の世界」を見ることができる稀有な人だったという。本を夢中で読み進めるうち、ミアは同級生の誰よりもフミコが近くに感じられた。一方、学校では自分の重い現実を誰にも話してはいけないと思っていた。けれど、同級生のウィルにラップのリリックを書いてほしいと頼まれたことで、彼女の「世界」は少しずつ変わり始める――。
amazonより引用


ミアの人生はどうなっちゃうんだろう。
パラレルワールドの金子史子さんも、どうなっちゃうんだろう。二人の人生の行く末は、、


続きが気になって気になって、一気読み。


これ、本当に小説か?(いや、絶対に違う。)と思わざるを得ない情景が痛く、心苦しく刺さってきました。今日はモヤモヤの消化活動noteを書かせていただきます。たぶんネタバレ含むので、ご注意くださいね。


他者の「リアル」を消費してないだろうか


ミアの友人とのやりとりで、いかに「リアル」という言葉が危ういものかを思い知らされました。自分が知らない世界のことをリアルと言うならそれは分断を招くきっかけになってしまうのかもしれないから。リアルだね、と言われた側は「おれとおまえは違う」と言われたような気持ちになってしまう。そんなこと1ミリも思っていなくっても。。

でも、もしかしたら、無意識下でマウンティングしてる可能性があるんじゃない?些細な言葉使いやニュアンスによって、表面に出てきてるかもしれない。

これはミアの友人を批判したいわけじゃなくて、わたし自身はどうなのさってことを問題提起したいんです。ドキュメンタリー好きな、わたしに問いたい。他者のリアルをコンテンツにして「リアルだね」と感想を述べながら、だらだらと消費していませんか?


幸いなことに、ミアの友人にはエンパシー(:他者の立場に立って、その人だったらどう考えるか、どう感じるかということを想像してみる能力)の原石がありました。ミアの日常や才能を、ただの文化祭要員として消費するのではなく、それ以上を求める姿勢が。

「分かるはずない。でも、分からないから知りたい。分かるための努力をしたい。」
ウィルがミアに送ったと思われるメールの本文

きっと分かり合えないのは分かってる。でも、分からないから知りたい。そんなエンパシーの一歩手前のパッションが、彼には存在してました。他者と分かりあうには、まずはここからなんでしょうね。それは浪費でも投資でも消費でもない、他者との付き合い方の問題。


(余談ですが、孤独を感じるママたちの声であった「分かってほしい」の本当の姿かたちは、「わたしのことを分かりたい、知りたいと思ってほしい」かもしれないなあと思いました。)


大人を信じられなくなった子ども

そして一番気になったのが、ミアの過去。

なぜミアはここまで他人を頼らない性格になったのか。小学生の弟の世話を全面的にしている14歳のミア。母親に変わってお迎えに行かなきゃいけないから、部活にも入れない。でも、社会に対してヘルプを出さない。・・・誰がどう見たってヤングケアラーです。

ミア本人としては、外に助けを呼べないのは、「ソーシャル(ワーカー)」に捕まって姉弟が離れ離れにさせられるのが嫌だから、らしいですけど。うがった見方をすると、本当はミア自身が弟という存在に依存していたのかもしれないと思いました。弟と自分を重ね合わせて、弟を守ることで、一生懸命に自分を守っていたのでは。

でもね。ミアがそうなっちゃった理由があるんです。


それは、大人のせい。
助けてもらえるはずの数々の大人に裏切られ続けた結果、今のミアになった。

助けを出したけど、そのやり方に、やることに、やってくれないことに都度絶望してきた。だから助けを呼んだところで、また絶望するのが怖い。だからもう助けを呼べない。今からの変化よりも現状維持を望むようになっっちゃった。学習性無力感というやつでしょうか。

やるせないけど、許せないよね。


・・・誰かの絶望には絶対になりたくない。
わたしは子どもを裏切らない大人のひとりになれるだろうか。


おしまい


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