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わたしたちの肺

 高校時代、図書室で歌人の枡野浩一さんの「かんたん短歌の作り方」という本を何げなく手に取ったことをきっかけに、短歌の世界に飛び込むことになった。定型のリズムで詠われた作品を夢中になって読み、もしかしたら自分にも詠めるかもしれないと思って、五七五七七と指折り数えながら創作を始めた。
 当時はただ一人で楽しんでいたが、大学に進学してからは短歌を詠む仲間もできて歌会などのイベントに出掛けるようになった。医師になってからも短歌はずっとわたしの生活の一部で、結社や同人に入り、歌集を出す機会にも恵まれた。
 短歌は文字通り短い。比較的簡単に覚えられ、心の片隅に置いておくのにちょうどいい。いいなと思った歌は、生活のふとした場面で思い出すこともある。そうして心の片隅にひそませた短歌は、時々おまじないのように自分を守ってくれるのだ。例えばこんな短歌がある。
 
  野ざらしで吹きっさらしの肺である戦って勝つために生まれた
                   服部真里子『行け広野へと』

 できれば誰とも戦いたくない、とわたしは思う。でも現実はそう簡単ではなくて、日々チクリと、時にぐさりと刺されるような痛みを感じる出来事に出合ってしまう。
 あの時、まだ若い女性の見た目をしていたわたしの意見を威圧的な態度でねじ曲げようとしていた人は、男性が登場して同じような意見を言うと、簡単に態度を変えた。わたしと彼とでは、性別が違っただけだったのに。あの時、つまらないルッキズムで女子のかわいさにランク付けをしていた人たちは何が楽しかったんだろう。誰かのかわいさは、別の誰かに幸せをもたらすことはあっても、本来はその人自身のものなのに。
 何かに容易に搾取される世界で、わたしたちの肺は野ざらしで吹きっさらしで、すぐに傷だらけになってしまう。でも、そこでしゃがみこんでしまいたくない。奪われたものを取り戻すためになら、「嫌だ」「違う」と言って戦うことだって選べる。勝ち負けは全てじゃないけれど、いざという時に「勝ちたい」と願うことは一歩を踏み出す勇気になる。
 この短歌や、今まで心にためてきた数々の短歌に背中を押されて、今日も明日もまっすぐに自分の足で歩いていこう。

「徳島新聞」2018年9月16日朝刊に掲載


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