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本棚のなかの『遥かなる山釣り』 by 山本素石

このところ琵琶湖周辺に縁があって、先日も仕事の下見に行き、その夜に「炭火薪火講座」やタマリン紙芝居をやったりしてきたのだが、ブログを書くのに琵琶湖や愛知川のことを調べていたら、山本素石という人が引っ掛かってきた。

山本 素石(やまもと・そせき 1919年ー1988年)は渓流釣り師でエッセイスト、当時はツチノコ博士としても有名だった。山本素石の生まれは滋賀県甲賀郡甲南町、すなわち琵琶湖に流れる野洲川の支流、杣川の上流部なのである。

ベッドに横たわりながらスマホでググっているうちに、そういえば山本素石はビワマスのことを書いた文章があったはず・・・飛び起きて2階の本棚を探してみると・・・あった! 引っ越しの度に捨てられた本から逃れて、ここ高松までこの本が来ていた。

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『遥かなる山釣り』(産報レジャー新書 1975年)、僕が16歳、高校1~2 年生のときに購入したものだ。当時は開高健の『フィッシュオン』とともに、この本を読みながら岩魚釣りに憧れを抱いていったのだ。

さっそく目次をひもときながら、琵琶湖に流れる渓流の随筆はないか探してみる。

滋賀県の八日市から永源寺を通って鈴鹿の尾根を越える古道がある。八風街道と呼ばれてきた愛知川沿いの道で、鈴鹿のイワナ釣り師にとっては忘れがたい往還である。南の御在所岳から出てくる神崎川と、北の御池岳から出てくる茶屋川と、御池川は、いずれもこの街道の奥で合流して愛知川となる。神崎川と茶屋川のイワナは、戦後十数年の間、かなりよく釣れていた。(山本素石『遥かなる山釣り』/狸の音)

この本は推薦文を今西錦司が書いている。絵も上手くて魅力がある。開高健だけでなくこの山本素石にも僕はかなり影響を受けていたのかもしれない。

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この本は「山釣り愛染」「渓魚まんだら」「樵夫みち」という3章に分かれていて、「渓魚まんだら」のなかに「鱒の管見〜鱒の血筋を追って」という一文がある。琵琶湖に流れ込む川の地図とともに、アマゴやビワマスの生態について自説をくわしく展開している。

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それにしても、この当時にして奥山の変貌ぶりを嘆いているのだから、当時の僕が焦り気味で東北の渓流を目指したのもムリはない。

けっきょく僕は東京の大学を一校も受験せず、東北の溪で1977ー1981の4年間を過ごしたのだ。思えば山岳渓流が生き生きとしていた最後の時代だった。東京在住時代には丹沢に渓流釣りに行ってみたが、さっぱり釣れない上に、風景に「野生の貌」がない寂しさを感じた。

だから東北に行ったのは正解だったのだが、大学時代を渓流釣りで遊び呆けていた上に、東京に就職するも2年3ヶ月で会社を辞めて「絵を目指す」と宣言して、両親を激怒・呆れさせていた。父は僕を県の役人にしたがっていて、東京の4.5畳木造アパートでコタツテーブルで売り込み用のイラストを描いていると、実家の水戸から密かに上京し、突然その受験願書を手に現れたりした。

だが僕の決意は固く、会社を辞めた翌月には八ヶ岳の山小屋でアルバイトをし、東京に戻ってからも独学で絵を学びながら、デザイン会社や出版社に売り込みに行った。東北の大学では工学部に在籍していたので、東京では業界に友人もコネもまったくないというゼロからの出発だった。

中高生の頃は、釣りのほかに蝶の採集・標本作りもやっていたのだが、東北に行ったと同時に蝶の採集を止め、東京では釣りを止めた。僕は南アルプスや北アルプスなどの山岳放浪に向かい、高山植物のスケッチ描くようになった。そして、それを手書き文字でイラスト紀行にまとめる仕事に没頭していくのだった。

僕の本棚はアトリエを作ったときのフローリング材(30ミリ厚の杉)や足場板を削って、インパクトドライバーで自作したものだが、引っ越しの度に蔵書を処分して、ほんとうに仕事に必要な本だけが厳選されて、ここ高松まで来た。

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その中に山本素石が入っていることをすっかり忘れていたが、いま琵琶湖周辺に関わるようになってこの本の存在に出会ったとき、過去と未来を瞬時に思い出すという、まるで渓魚になって渓(たに)と湖を行き来するような不思議な感慨に打たれている。


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