さすらいのノマドウォーカー

さすらいのノマドウォーカー⑦

恐る恐るストローを吸い、アイスカフェオレを口に含む。

うん。いつもの味。

安心して嚥下する。

いつもの味。変わらない味。

それが一番。

だがしかし、世の中に不変のものなんて無い。

珈琲なんて苦い飲み物、大人になっても絶対にのむもんか!と決意した自分がミルクでマイルドにしてあるとはいえ、カフェオレが大好物になるなんて思いもよらなかった。

そしてこの店も。

体調を崩したあの日から1週間しか経っていないが、月が変わった。

入店して真っ先に気が付いた。

店内の色合いが変わった。

配置はそのままだ。照明、天井、カウンター、メニュー、テーブルと視線を動かし、椅子の色だけ変わっていたことに気が付いた。

座面と背もたれにダークブラウンの合皮が使われていたのだが、ライトベージュになっていた。

チェーン店としては中規模の店内。座面と背もたれが占める割合など微々たるものだろうが、その二つが明るい色になるだけで、雰囲気が格段に変化する。

この変化は、客として通う自分に大きな影響を及ぼすものではない。

しかし変化は、少なからずストレスをもたらす。

いっそリニューアルしてすべて変わってしまったほうが受け入れやすいのかもしれない。

母が倒れた。

いつまでも変わらないと、勝手に思っていた。おかしな話だ。

なぜ母だけは元気なままだと思い込んでいたのだろう。

姉が都心の大学に合格して家を出た。自分も同じ大学を目指し、かろうじて受かった。手間のかかる子供がいなくなった一軒家はさぞかし静かで、母の負担も減ったであろうが、それはそれで寂しかったのかもしれない。持家だった今までの家を売り払ったお金と父の残した保険金を合わせて、新たに家を買った。

足腰が弱くなった祖父母のために1階をバリアフリーにし、2階は子供達がいつでも戻ってこられるように部屋数を多くするように設計した注文住宅で、玄関が2つある二世帯住宅だ。

場所は姉が内定をもらった中堅どころの企業に、30分以内で通える地域から探したらしい。

子供二人を大学まで進ませ、仕送りしても余った保険金とは、どのくらいの額だろう。下世話な疑問を、母の倹約の賜物と一蹴した姉は、卒業と同時に母の元へ戻った。

親不孝…するつもりは全くなかった。しかし望んだ会社に就職できるほど世の中は甘くない。まったくもって甘くない。こちとら何事もそつなくこなす姉とは違い、要領もオツムの出来も優秀ではないのだ。同じ大学だって学部によって偏差値が違う。どちらが上かは推して知るべし。

隣県とはいえ電車の乗り継ぎが悪く、母の家からの通勤は著しく体力を消耗する距離にある中小企業に勤めることになった。姉が、お祝いよりも先に親不孝者と罵ったのは理由がある。

なぜなら、大学時代からおつきあいしていた男性との間に子供を授かった姉は、とんとん拍子に話を進め、あっさりと結婚を決めて家を出て行ったのだから。

私の後はあんたが母さんの側にいてあげるのよと、常日頃から脅しつけていた姉は予定が狂って、たいそう憤った。あの姉が出来婚なんてありえない。本人は決して認めないが、のらりくらりとうだつの上がらない恋人に業を煮やして、画策したに違いない。あのひとが相手のご両親に気に入られないはずがないし。

後継がしくじったのは謀計の詰めが甘かったせいだと己を責める傍ら、姉は母への定期訪問も欠かさなかった。

しかし子供が生まれてからはお乳だおしめだとてんてこまいで、連絡もままならなくなったらしい。頻繁に「今週はあんたがいけ」との指令が飛んできた。もちろん従いましたとも。3回に1度くらいは。

そんな折り、祖父母が相次いで亡くなった。祖母が風邪を拗らせて病院で静かに息を引き取ると、後を追うように祖父も天に召された。脳溢血だった。

赤子を姑に預けて駆け付けた姉に、子供の傍にいてあげなさいと早々に追い返した母は、こちらが心配する間もなく新たなビジネスを始めた。

最近はやりのシェアハウス。

生活の拠点を2階から祖父母が暮らしていた1階へ移し、ダイニングキッチンと居間の他に6畳の部屋が3つある2階をシェアハウスとして貸し出したのだ。

共有部分のキッチンや風呂トイレの掃除は大家である母が行う。母の家が建つ地域は分別するゴミの種類が多くて有名な市なのだが、トラブルにならないようゴミ出しも請け負う。要望があれば1階で食事も用意してくれる。その上、破格の家賃となれば、あっという間に入居者が決まり、待ちまで出たそうだ。

忙しく働いているほうが、性に合っているのだろう。始めの頃は、「若い人の好きな食べ物ってなにかしら」などと質問の電話が来たが、大きなトラブルもなく順調に運営できているようだった。なにしろ母は見違えるように活き活きとしていたので安心しきっていた。

姉夫婦にも2人目の子供が誕生し、自分の仕事も軌道に乗ってきたころ、それは起きた。

母が倒れた。

晴天の霹靂だった。


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