さすらい2

さすらいのノマドウォーカー 21話

この街に手頃な物件があればと期待していたのだが…儚く散った。予算と広さと立地条件が合わない。うまくいかないもんだなあ。あまりのんびりしてもいられなのに…

部長はもうこなくていいと言ってくれたが、デスクの私物を片付けなければならなし、一度も顔を出さずにはいさようなら、とはいかないだろう。
憂鬱だ。主に渡辺との邂逅が。

こっそり忍び込んでひっそりと幕引きはできないものか。しょうもない画策を脳内で繰り広げながら、もはや目をつむって手でもできるゴミの仕訳を終えてリビングに戻ると、出迎えたのは怒気を放つ姉だった。立ち上る陽炎が、取り澄ました表情と心情がかけ離れていることを雄弁に物語っている。

「…どうしたの?」

「どうしたもこうしたもないわよ!これからシェアハウスのことはあんたが全部やるってどういうこと?」
「…言った通りだけど…」

まぶたをひくひく痙攣させている姉は、醜くなるどころかより艶麗さが増す。家族の自分がいうのもなんだけど、この人の美の真髄は感情を爆発させたときだと思う。取り澄ました普段使いの美など、足元にも及ばない。

「ちょっと聞いてるの!!?だいたいあんたはいつもいつも言葉が足りないのよ!」
うんたらかんたら。

何年ぶりだろう。姉さんの長口上。口を挟むと火に油を注ぐはめになるので、神妙に拝聴してるふりをしながら、空想を遊ばせていたっけ。

言いたいことを言い終えた頃合いを見計らって、ことの顛末を簡潔に述べた。この間合いは兄弟ならでは。長年培ってきた加減だ。

「…そういうこと」
ため息とともに、わかったわ…というと次はこうきた。

「おなか減った。なんかつくって」

逆らわないほうがいい。反抗せず冷蔵庫をあけた。

うーん。何もない。当たり前か。さてどうする。

「旦那さんはどうしてるの?」

「旦那は出張!子供たちは、ジイジとバアバが…お義父さんとお義母さんがみてくれてる」

ちっ。追い返す作戦は使えないか。

「こんにちわ~」

そこに江幡が乱入した。最近なぜか食事時を狙って1階にやってくる。

愛想を振りまきながら、「実家から送られてきたのですが僕だけじゃ食べきれないので」と熨斗紙のついた桐箱を恭しく差し出してきた。淀みのない所作だったので、無警戒に受け取ってしまった。

ん?この匂いは…もしかして…

そっとふたをどける。そこに鎮座増していたのは…

お肉!それも高級和牛!しかも霜降りステーキ用!

遠巻きにして胡散臭げに眺めていた姉の目の色が変わった。

警戒対象から歓迎する人物へと。

「いただきもので恐縮ですが」

姉はオーガニックなものしか食べませんという透明感のある容姿をしているし、子供達には体にいいものを選んで食卓に出しているらしいが、当の本人は高級食材大好き、ジャンクフード大好き、脂ぎっちょんぎっちょん大好きだ。

「よろしければこれで…」

うまい取引条件だ。

現在、要望があれば食事も提供するという入居当初の約束を守れていない。

一度作ってしまったので、なし崩し的に作ってはいるが、あくまでも自分が作るついでというスタンスにしている。事前に約束を取り付けられないからだ。しかしそうすると、すべてこちらの持ち出しになる。回数を減らすための牽制になればという目論見もあるのだが、仙道さんには効かないのでまり意味がない。

ただし、こんなふうにめったに食べられないものを差し入れされたのであれば、作るのもやぶさかではない。

ありがとう江幡ボン!

ついでに姉の点数も稼げたよ、江幡青年!

「あ、でも…」

「なに?」

水をさされた姉から射るような視線を浴びせられた。

「せっかくだし、母の退院祝いで使いたいな」

「大家さん、退院されるんですか!」

「はい。週末に一時帰宅して、問題なければ次の週にでも」

それはおめでとうございますと、素直に喜んでくれる江幡ボン。君は本当にイイコだよ。

「母さんはこんなに脂っぽいもの食べないし、来週までもたないわよ!」

必死な抵抗をみせる姉に失笑しそうになる。

「そうですね。実は僕のところに届いてから数日経っています。退院日というか週末でも鮮度が落ちてしまいます。ご退院の祝いとしてそそのころにまた贈ってもらいますよ」

さすがお坊ちゃま。侮りがたし。これでは退院祝いに呼ばないわけにいかないではないか。

「催促してしまったみたいで申し訳ないわ」

ちっとも悪びれてない姉は、江幡ボンの腕にソフトタッチしている。

恐るべし、女子力。いや、女王様の懐柔術。

「お母様のお好きなものは何ですか?」

お母様?調子に乗りすぎだ。

一転して冷たい視線を浴びせられた江幡ボンは、いち早く察して言い直した。

「あ、えっと、大家さんのお好きなものは何ですか?」

「蟹かしら?」

うわっ。確かに母の好物でもあるのだが、食べたいのは姉さんでしょ?

腹黒い。

あんたも好きでしょ?と無言の威圧を送ってくる姉に目だけで頷いて、調理に取り掛かった。

これはシンプルに塩コショウで焼くだけがいいよなあ。

4枚か。仙道さんが出てくることを見越して全部焼くか。

背後で姉とボンボンが談笑している。

「真琴さんも蟹、お好きですか?」

おいおい。もっと他に質問があるでしょうに。

せっかく2人でおしゃべりできるチャンスなのだから、有効活用してくれたまえよ。

そして上手にだまくらかされて、これからも差し入れをしてちょうだい。


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