さすらいのノマドウォーカー

さすらいのノマドウォーカー⑩

文学少女ないし文学少年…文学青年でもいいが、物語に耽溺した者は、作り手側になることを一度は夢見るのではないだろうか。

かく言う自分も、その口だ。そしてあっけなく挫折した。いや、挫折というほどの努力も苦労もせずに、読み手オンリーに戻った。他人と比べるものではないとわかっていてもアレを努力と称しては、心血を注いで努力している人に申し訳ない。大学受験だってもう少し粘ったもの。

文字の羅列から情報を引きだし、空想と想像の中で自由に遊ばせることはできた。

でも逆はできなかった。

溢れんばかりの強い感情や、幻想的な情景、複雑怪奇なストーリー展開は際限なく湧き出たが、文字に変換できなかった。素晴らしいだの素敵だのという抽象的な表現と、白いだの青いだのの端的な描写が並んだボキャブラリーの乏しい文章は、小学生の作文以下だった。

語彙を増やしぴったり当てはまる表現を探したりもしたが、はみ出たり隙間だらけの表現に、もやもやは募るばかり。

なによりその作業をちっとも面白いと感じなかった。

適正の無さは、表現力の無さではなく、探究心の無さと悟った自分は、あれほど好きだった読書の時間が削られるくらいならと、淡い夢をあっさり手放した。

遠い昔に置いてきた夢が再燃したのは、時間ができてしまったからだろうか。

チームの要が抜けても大した問題もなく進行するプロジェクト。もっと相談の電話やメールに煩わされると予想していたのに、出勤日に合わせての確認で事足りている。優秀なメンバーばかりで助かっていると同時に…喪失感が度量の狭さを露呈させる。

シェアハウスの大家の真似事も、「やっておいたほうがいいこと」はいくらでもあるが、手を抜けるだけ抜いた必要最小限の仕事なんてたかが知れていた。

新着メールもないノートPCをぼんやりと眺めているうちに、「書いてみるか」と思ってしまった。

そして気づいてしまったんだ。頭の中に渦巻くモノを文字にしようとするから失敗したんだ。事実を、実際の出来事を書くなら出来るんじゃないかって。

ノンフィクションにするつもりはない。それじゃあ日記だ。

多少の脚色をして物語にし、ぽっかり空いた時間と心の隙間ってやつを創作で埋めてみようかって。

隣の席で文庫本を手に、愛しの店員さんで心をいっぱいにしている男性をみやる。おや、右側が少し厚くなっている。こちらが物思いにふけっている間に読み進めたのだろうか。

ああして誰かの手に収まって読んでもらえるほどの出来栄えは端から期待してない。でももし、母の意識が戻ったら、こんなことがあったんだって読んでもらえたらなって。口で説明するのもいいけど、それは話上手な姉さんに任せて。自分は自分らしい方法で、母と繋がりたいなって。

週末や母の家へきた時に限られているけど。ポツポツと書きはじめて、少しずつ形になりはじめた。挫折しないどころか、書きたいという衝動が消えないのは、今、こうしてキーを叩いている間も、母と繋がれいるような気がするから、なのかな。

親孝行したいときに親はいない。

笑って送り出してくれた上司のセリフだったか、いつか本で読んだのか。

まだ間に合う。

きっと間に合う。

カッシャーン。

破裂音に驚いて音がした方角を見ると、飲み終わったドリンクをサラリーマン風さんが返却口へ戻し損ねた音だった。どうせ美人店員さんに気を取られて余所見でもしていたんだろう。三段に分かれている仕切りの一番上に置こうとして失敗し、ガラスの破片と残った氷がまじりあってフロアーに散乱していた。

雑巾を片手に出てきた美人店員とサラリーマン風は、「すみません」「お怪我はありませんか」「本当にすみません」「いえいえお気になさらずに」とお互いにペコペコ頭を下げあっている。

お話できてよかったね。

アクシデントが思わぬ幸運を呼んでくることもある。

佐々木家もそうであってほしい。母の入院はきっかけであってほしい。

氷が溶けてグラスの3分の1くらいが透明になってしまったカフェオレの、底に残っているまだ濃度をたもった部分をそっと吸い込む。

あ、まだこの問題が片付いていないや。

ちょうどそこへ新たな客が暖気と共に入ってきた。外はまだ暑いらしい。

「すいませーん。カフェオレMサイズふたっつ。あ、アイスで~」

よし。

カフェラテでもカフェオレって頼んでもいいんじゃん。流行に敏感そうな茶髪で巻き髪の女子2人がそういってるもん。

よし。

よしよしよし。

気分が乗ってきた。このまま昨日までの出来事を書き上げてしまおう。

よしよしよし。


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