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【百線一抄】053■瞰望岩が見守る鉄路の変遷―石北本線

長い歴史を回顧すると、その来歴に驚きつつもうなずける。思うに
現在の姿へ変貌していく百年間のシナリオを、持てる慧眼で創出で
きた者などいないのでは。それほどに石北本線が歩んできた歴史は
つまるところ道北鉄道史の縮図と言える。二百キロ超の長大路線が
繋いできた、大いなるローカル線のむかしと現在に触れてみよう。

比較的内陸に位置する北見市は、戦時中に市制を敷く以前は野付牛
という地名であった。野付牛に線路が到達したのは明治の末、南の
淕別からの網走線の延伸によるものであった。翌年に早くも網走へ
抜け、道央から1本の鉄路が繋がった。続いて遠軽方面へも伸び、
留辺蘂を経由して3年後には遠軽に到達している。昭和に入って、
ようやく旭川からの線路と遠軽からの線路が完成となった。石北線
の誕生である。この時点での区間は新旭川-野付牛の間であった。

旭川から網走の間を石北本線と呼ぶようになったのは、函館から長
駆網走まで急行列車が走り始めた頃。稚内とを結ぶ列車と併結で走
る、同期の桜であった。釧路へは道内初の特急も誕生し、新時代の
幕開けとともに道央と網走を結ぶ幹線として歩み始めた。石北本線
は、複数の生い立ちを歩んだ路線を束ねた出世路線なのであった。

今は新旭川-網走間で接続する鉄道路線が皆無となっている。遠軽
から先に名寄経由で旭川とつながった名寄本線は平成の初めに廃線
になる。池田-北見間を分離した池北線は第三セクターに転換後、
冷え込む景気とともに沿線の過疎化が進み、バスに置き換わった。
最後の砦の様相すら醸す石北本線自身も、峠越えの区間を中心に厳
しい利用状況が続いており、主要都市を結ぶ幹線としての役割と、
近隣集落を結ぶ地域の足としての役割の維持に懸案がのしかかる。

もう少しで遠軽駅に着くというところで見えてくる大きな岩山。こ
の岩が瞰望岩といわれる、遠軽の地名の由来となったものである。
遠くの場所からでも見える岩とされ、景勝地として知られる。大昔
からこの地を見守ってきた瞰望岩には、石北本線などの移り変わり
はどのように見えているのだろうか。峠越えを孕む上川-遠軽間は
白滝と丸瀬布、瀬戸瀬の3駅のみに。廃駅の一部は信号場として残
るが、列車の数は多くない。それでもかけがえのない路線なのだ。

それでは次回の投稿まで、ごきげんよう。

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