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受け取り手の都合

これを慮るのはむずかしい、という前提で話を進めます。

ここ数日、これに対する視点が全消失していると思われる事例を散見しています。類例のうちふたつを挙げるとすると、ひとつは出し手、つまり発信者の嘆き、もうひとつは受け取り手、つまり受信者の思惑に基づくものです。

まずは前者。

日頃から目に余る投稿に対して「自分はこうありたい」と立ち位置を明確にしたうえで発信には配慮をしており、実際に概観してもそれはうかがうことができるように見受ける方が、とある相手について「なんだかなあ」と思っている件。
どうも、しばらく投稿期間が空いたことを念頭に置いて自身の近況を投稿したところ、それに対するとある相手のリアクションが想像以上に厳しい内容になっているのが悩ましい、そんな感じ。

その方自身にすれば「なんでそこまでする?」というどこにぶつけていいかわからない怒りや悔しさのようなものをにじませているのですが、それはそれでわからなくもないと思うのが、当事者ではない当方の解釈になります。

そして後者。

先方が「返事をくれないのがつれない」と痛烈な発信を投げ込んでくることに知己が困惑している件。
これだけだと”かいつまんで感”が強すぎるので補足すると、先方は自身で解決できないことが出てくると朝な夕な関係なく長文を連投でもちかけてくることがあり、初期は内容を概観してできるだけ早めにアクションを起こし、後刻返信する姿勢を見せるようにしていたものの「あれだけの内容が一言や二言で帰ってくるのが納得いかない」と言われる。それを受けて、仕事中や就寝中にそれに見合った水準の返信をするのは無理があることを伝えると、その時は理解を示してくれるものの、数週経って同じような状況になると前述と同様のやり取りが繰り広げられるという。

これもこれで当方にすれば、わからなくもないという解釈。伝えたいことがあるならそれなりの情報量が必要となると考えるのが当方流なので、受け取った情報量が多ければ、それなりの返信をするのが筋だと考えている。また、熟考が必要であればその旨をまず伝えて内容と時間を預かり、それに見合った分の返信をするようにして応えることで、少しでも期待に添えることができるように心がけている、つもりだ。

そこで本題。
本題とはつまり「受け取り手の都合は、そこにあるのか」である。

その問いの答えについて、ひとことでいってしまえば、「たぶんない」これに尽きる。

先方の思慮など到底探り当てるなどできないし、抉り出す気も毛頭ない。むしろそのような詮索や推し量りを押し付けない方が健全かつ現実的な(≒当人としてふさわしいと思われる)発信をこちらも受け取ることができるし、よけいな気遣いなんていらないというのが本筋ではある。
しかし、こちら(受け取り手)にもこちらの都合というのはあって、それなりに多用が続いていて眼前のタスクを消化するのを最優先にしている状況であったり、先方(出し手)の思いの外であるところでこちらがとんでもない状況に置かれていることもある。そしてそれは俗語的な表現をあえてすると、受け取り手が「いっぱいいっぱい」になっていて、極めてストレスフルな状態にある場面もあるかもしれない、という述べ方になる。当方も少なくとも年に数回、そのような局面に立つことがあるので、このようなことはレアケースでは決してないはずだと信じたい。
ところが冒頭にあげた類例のような課題は、えてして前段のような状況にある受け取り手において噴き上がることが多いように思えるのである。
言い換えれば、受け取り手、つまり読み手がどのような状況でそれを受け取るのか出し手は考えているのか?とでもいいたくなるような状況を受け取り手が感じているのではないか、ということを投げかけたいのだ。

もちろん、本稿で幾度も述べた通り、出し手にこれをぶつけるのはあまりにも酷な話であることは言うまでもないし、言ってはいけないと思う。言ってしまえばそれこそ水掛け論どころか火と油をくべ続ける泥仕合になるのは見えているし、そんなものなど見たくもないし、けしかけたくもない。これは揺るぎのない当方の”本意”である。

しかし、しかし、だ。

では受け取り手はそれを甘受しろというのかというと、それはそれであまりにも暴論過ぎないか、とも思えるのである。

現代の情報発信というのは親切で、便利で、残酷だ。
先方が発信すれば、ほぼ同時にその旨が対象者(不特定多数である場合も含む)に拡散され、それを受け取ることが可能である機材(持ち主、ではなく)がそれを受信すれば脊髄反射よろしく持ち主にそれを伝える。何せ機材がルーティンで処理しているアクションなのだから、持ち主の状況なんて知ったこっちゃないレベルで無邪気にそれを知らせ続けるのが仕様なのである。メーカーはそれを期待して機材に受信を知らせるよう初期設定しているのだろうから、何はともあれ持ち主は届けられたものは無条件で受け取るしかない、それもまた仕様なのだと言える。一方でそれが不要だというのであれば、受信の知らせをoffにする設定は機材の概ねで可能であり、実際にそれで対応している向きもいる。そして、それで対応している向きにおいて、それを不便だと吐き捨てる者はほとんどいない。
そのうえで残酷だ、とするのは現代の機材は、単に受け取ったことのみを知らせるだけでなく、その内容の一部または全部を持ち主に知らせることをタスクとしており、その内容が緊急のものなのか、今でなくてもいいのであとで知らせてもいいものなのか、持ち主にとって実質のヌル情報なのかは選別の対象でないという、何とも無責任な設定が知らず知らず持ち主を傷つけている側面があるということに対する視点からである。すなわち、持ち主がどういう状況にあるかはもちろんのこと、たまたま持ち主が「そんなもの見たくもない、知りたくもない」と思っていたとしても”とにかく知らせる”のがタスクであり、それが仕様である以上、黙々と機材はそれをこなし続けるのである。そして持ち主のイライラやむかつきを増長していることに何ら責任も恐縮も機材は一切関知しない。

これがアナログの世界、つまり手紙が情報のやり取りが中心であった時代は受け取り手が開封、もしくは中身を読まない限りは出し手の思いは伝わることがなかった。いわば、受け取り手の側に出し手の思いをどうするかを選ぶ全権が与えられていた。差出人を確認して気になればすぐ開封すればいいし、あとで読みたければ腰を落ち着けてから封を切ればよい。読みたくなければ放置してもよいし、破り捨ててもよかった。それでよかった。
そこに電話が普及してくると、出し手が発信してきたことを電話機が知らせるというアクションが生じたことにより、そのアクションを終わらせるために受け取り手は受話器を取り上げるか、鳴らしっぱなしで放置するか、もしくは留守番電話機能に丸投げするか、最後の手段として電話線を抜くかの対応を迫られるようになった。それでも、この段階では早朝や夜は電話をかけるのを控えるとか、誰が電話口に立つのかわからない(本人以外に家族や同居人、環境によっては隣人や管理人が出る場面も普通にあった)という思慮が出し手にはあったはずである。
そこにきて携帯電話やインターネット、ひいてはSNSの普及である。とにかく出し手は早くそれを伝えたい、発信したいという思いが優先されるようになり、受け取り手はとめどなく多方向から時間を問わず飛んでくる不特定多数もしくは”つながっている知り合い”どもの「情報」を無条件で受け止め続けるのが当然である情勢となっている。そしてそれをガッツリ受け止めるであれ、サラリと受け流すであれ、難なくそれを消化していくのが現代人であるかのように、世間の認識はすり替わってしまっている。すなわち、知らぬ間に情報を扱う優位性は、元来受け取り手側にあったはずのものが、われわれが便利だと思って手に取ってきた機材の(機材自身は知ったこっちゃない)都合によって出し手側のものに移行していたといえるのである。

そして不幸なのは、おそらくそのことを出し手側は気づいていないし、気づこうともしないのが現状であること。

そもそも発信したい側はそれをしたくて出し手に回っているだけだし、それを抑制するのは、極言すれば発信そのものを禁ずることと同義となり、それは繰り返しここまでで述べている通り、あまりにも無体な話だ。
だからといって受け取り手に対して「四の五の言わず黙って受け取れ」と言わしめる権限が出し手にあるのかというと、それこそ一方的な話にならないか。せめて、送り付けられるのはともかくとして受け取り手がいつそれを受け取るかぐらいの思慮を巡らせることはできないものか。その「思慮」というものを温めることができるのが人間というものではないのか。

それができないというのなら、生成AIでもなんでも機材のせいにしてしまえばいい。それも違う、それこそ極論だというならば、既知の人物が出し手であることを踏まえて一呼吸おいて受け止めることはできないものかと提言したい。
家族や血縁はもとより、友達や知己、同僚らであれば正常にさえ機能していれば、何らかのかたちで「思慮」というものを通じて、よりベターな方向を示唆もしてくれるし、新たな温度を共有できるよう知恵や方策、謝罪や和解を”創り出す”ことができるものと信じたいのだ。

もういいでしょう。つまるに、巷間が便利だと思っている機材どもは、いくら便利になったと、人間に寄り添っているといっても、どこまでもわがままでやりたい放題のわれわれに対して全幅の納得を提示することはない。
他方、われわれができることは、進歩していると思われる機材やシステムを鵜呑みにすることなく、その持ち主がどうあるのかをほんの少しだけ想いを巡らせることで、勝手のわかる良好な人づきあいを熟成させ、昇華させることぐらいしかない。
所詮その程度ぐらいしかないのだから、メタ空間の喧騒に飲み込まれない範囲で受け取り手のことをちょっと気にしつつ、先方のことが思いに寄らない状況にあるときは様子を見る、ないしは時間をおいてみるぐらいでちょうどいいような気もするのだ。

稿末までご高覧いただき、ありがとうございました。
それでは次回の投稿まで、ごきげんよう。


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