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【百線一抄】015■北の果てにも春は来ぬー宗谷本線

北の果てへ伸びゆく1本の路線。約260キロの道程をつなぐ長い
道のりは地形的にも歴史的にも平坦なものとはいえない。宗谷本線
が現在の形になるまでの流れは、稚内を到達点とした道北各地の開
拓やまちの盛衰を象徴するといっていい。細かい歴史は語れないが
明治期からのたゆむことない歩みについてたどってみようと思う。

函館よりも釧路よりも早く、より北を目指す路線の建設は進められ
る。19世紀のうちに士別までつながり、名寄へは5年で到達。山
の分け入るエリアを避けるように音威子府からはオホーツク海沿岸
の延伸をまずは進め、稚内に達したのは1922年であった。現状
になったのは大正から昭和に変わる直前のことで、1930年には
今の宗谷本線へ整理された。そして太平洋戦争の終結とともに稚内
で接続していた稚泊航路も休止となり、国内最北端の都市へつなぐ
鉄道路線として、周辺エリアの主軸となる地位を担うことになる。

稚内を含めた宗谷・天塩地区は人口密度も小さく、地図での見た目
からは想像しにくいものの、自然環境も結構苛酷だ。塩狩峠を越え
名寄のあたりまでは平坦であるものの、天塩山地と北見山地が幅を
詰めてくるに従って積雪量も多くなる。あえて遠回りとなる海側へ
向かう経路を先に選んだのは、天塩山地越えを避けたからだった。

分け入るように山林を穿ち、天塩川とともに西側へ抜けると、視野
がぐっと広くなるとともに、海側の遠景に利尻富士が見えてくる。
このあたりまで来ると地形の起伏が少なくなり、樹木もまばら。線
路も気づけば細くなっていて、北端にやってきた感慨を強くする。
もはや周辺を結ぶ路線はすべて削がれてしまい、後継のバスも堅調
ではない。点在する集落と交通結節点を結ぶ使命を果たすのが実際
に難しくなっているが、地域住民の足としても蔑ろにはできない。

勇壮たる様相で積雪を押しのけるラッセル車の活躍や、新型高性能
気動車の導入など、道北の幹としての役割を果たすべく、宗谷本線
はさまざまな施策を講じて各地域をつなぐ。沿線集落でも積極的に
複数町村で移住や農業支援を繰り広げたり、長時間列車やバスを乗
り継ぎ、途中の乗継地点で地元の産物を味わう旅の提案と、広大か
つ他地域にはない魅力を各方面で打ち出している。世紀をまたいで
つないできた最北の鉄路が、末永く多くの想いをつなぐと信じて。

それでは次回の投稿まで、ごきげんよう。

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