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日常の行為の中でする瞑想――超作(ちょうさく)という名の瞑想行2:ポンチ井の頭

こんにちは、玉光神社note担当のAMです。
今回はポンチ井の頭さんの「超作」についての論考、第二回目です。


前回(上記リンク)は、本山博のいう超作とは、単に行為を夢中になってするだけでなく、その動機に倫理性(愛)や智慧が伴わなくてはならないということであった。では、超作が出来ると何が起こるのだろうか。

自分がするんじゃなくて、ただ全力を尽くしてするだけで、もし悪い結果が出たら、それをいい結果になるようにさらにいろいろ最善を尽くしていい結果が出るようにするけれども、その行為そのものにも、結果そのものにも、これは神様がして下さるんだということが理解がついていれば、どういう結果が出てもそれを受け入れられるし、それから離れておれる。それが超作なのです。

本山博『愛と超作:神様の真似をして生きる』宗教心理出版、1996年、第6章82(197~198頁)

初めから神様のお助けをあてこんではいけない。自分の能力の中で全力を尽くして、そしてほんとに超作ができたら、百が二百になったり、三百になるように、どんどん発展してくる。そういうのは、超作をやってみたら実感できる。今までは実際にできなかったようなことまでできるようになるのです。普通の事業をやっている人とか、普通の仕事をしている人には、なかなかそれがわからない。

同書、第6章88(214頁)

つまり超作が出来ると神様がしてくださり、それによって百が二百になったり、三百になるように、どんどん発展してくるということである。神様の側からみれば、愛をもって、社会や他の人が良くなるように、最大限に出来る限りの工夫をして、必死に何かを夢中になってしている人間を助けるたくなるということではないだろうか。

本山博の説く超作ということの概要はだいたい理解出来たのだが、私にはどうしても以下のような素朴な疑問が湧く。

(疑問1)少なくとも私の周りには、(私も含めて)超作は分からない、難しいという人だらけである。それは何故?

(疑問2)倫理性、愛、智慧はともかく、誰かの役に立つ(であろう)ことを一生懸命している人は沢山居る(た)はずだ。そういう人で、自分は神を感じた、神懸かったなどという人は聞いたことがない、何故?

(疑問3)超作というものが本当にあるなら、他の著名な宗教家たちが殆どそのことを言っていないのはなぜ?

私は本山博のような霊的感性も、宗教的素養もないので、これらの疑問に対する答えがそう簡単には得られないことは想像に難くない。しかし、疑問1のように、私の周囲には超作が分からないという人だらけなので、なんとか自分も含めてそういう人のために、超作を理解する一助となりたいという気持ちで考察して行きたい。

次回は、これらの疑問を解く糸口は何? というテーマで。