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文学フリマと三井寿と欲望否定装置について

漫画『スラムダンク』で印象に残っているシーンはどれか、と聞かれたら、十人中八人か九人が頭に思い浮かべそうな場面がある。

と、ここまで書いて、スラムダンクには名シーンが多すぎるから、十人中九人も同じ箇所をあげるなんて現実的じゃないなと思い直した。そこで、私個人が印象に残ってるシーンをあげるとする(それでもやっぱり、たくさんありすぎて難しいのだけど)。

例えばそう、元中学MVPプレーヤーでありながら練習中の故障によってバスケ部を去った不良少年・三井寿が、かつての恩師・安西先生に向かって自身の思いを吐露する、あの場面だ。

彼は元々バスケ部を廃部に追い込もうとする見本のような敵役として物語に登場するのだが、この事件をきっかけに主人公達の仲間入りを果たす。そして、一度は挫折したバスケットと再び向き合うことになるのだ。

彼を語るうえでは絶対にかかせない、言わずと知れた名シーンなわけだが、かく言う私もこの場面を読んだ時はめちゃくちゃ感動した。

あの頃はネットなんてものが身近になかったため、小学生だった私は三井寿が仲間になるだなんてこれっぽっちも予想せずに物語を追っていた。貪るようにページを捲って、「こいつ仲間だったんかーい!」と知った時の、あの衝撃たるや。

さらに言うとこの三井寿、問題のシーンの直前までは、自分がバスケ部に戻りたいなんて絶対認めたくなさそうだった。そんなことは死んでも口にするまい、と心に決めていたように見える。

ところが、図らずも実現した安西先生との再会がトリガーとなり、絶対に人に見せてはいけないと思っていた本心(欲望)が本人の意思に反して溢れ出てしまったのだ。なんかその、「決め台詞を言ってやったぜ!」じゃなくて「言いたくないのに言ってしまいました……」みたいな感じも、なおさらぐっときたのであった。


ただ正直に言うと、私はこの「自分の意思に反して欲望が溢れ出てくる」状態がよくわからない。スラムダンクに限らず、映画やドラマなんかでも、気づいたら走り出していたとか、体が勝手に踊り出していた、みたいなシーンはよくある。


気づいたら?


勝手に?


なんでそうなる?


生まれてこの方、そんな状態になったことないのですが。

脳内では日々絶え間なく、やるべきこととやるべきではないこと、言うべきことと言うべきでないことのジャッジが行われていて、私の脳内においては何事も「やるべきこと」より「やるべきではないこと」に振り分けられる場合の方が多い。圧倒的に多い。

なぜなら私の頭の中には、『自分の欲望否定装置』が存在しているから。

あんなことしたいなーとか、こんなことやりたいなーと思いついても、というか思いつくと同時に100個くらい「やるべきではない理由」がシュバババババッッ!と頭の中に浮かんできて、その欲望を否定してくる。いつもその「べきではない」に立ち塞がれて、自分の欲望が打ち勝てない。「ならやらない方がいいか……」となってしまう。

この「べきではない」理由のひとつに、自分の欲望をそう簡単に人様に見せるべきではない(なぜなら恥ずかしいから)というのがあって、私はどうやら自分が何かを欲している状態を人に見せてはいけない、と思って生きているらしい。


例えば美容室に行くとする。


感じのいい美容師さんが出迎えてくれて、席に案内され、少々お待ちくださいと言われる。目の前には大きな鏡があり、その下のスペースには雑誌を読んだり映画を見たりする用のiPadが置いてある。時には飲み物のサービスが付いてくることもある。

椅子に着席して髪を切られる間、あるいはカラー剤を塗りたくられている間、どうぞリラックスしてご自由にお過ごしください、というわけだ。

このシチュエーションがもう、致命的に無理すぎる。

「他人が目と鼻の先にいる」状態で、iPadを手に取ろうとする時、お茶のカップを手に取ろうとする時、泣きたくなるくらい不安になる。雑誌を読みたいと思っていることも、喉が渇いたから水分補給したいと思っていることも、本当は誰にも知られたくない。

これらを手に取った時、私は美容師さんの目に「iPadを手に取りたかった人」「お茶を飲みたかった人」になってしまうんだなあと思う。それだけでもう、この世の終わりだ、みたいな気分になる。できることなら、ここからダッシュして逃げたい。

でもこの「ダッシュして逃げ出したくなっている状態」も知られたくないので、できる限り挙動不審に思われないよう、微動だにせず(美容師さんは察しがいいので、モゾモゾしていると気を遣って「お手洗い大丈夫ですか?」などと声をかけてくれる)、滞在時間のほとんどを緊張して過ごすことになる。リラックスなんてもってのほかだ。

一事が万事こんな調子なので、これがしたい、あれを言いたい、みたいな考えがぽっと頭に浮かんだとしても、容易に実行に移せるわけじゃない。何かをしたいと思うこととそれを周りに表明すること、実際に行動に起こすことの間には、とても大きな隔たりがある。


その点、三井寿はえらい。


自分の過去や本心なんて絶対隠し通したかったはずなのに、隠すどころかあんな風につまびらかにされたあげく、大勢の前で辱めを受けて、あまつさえその様子を全国の読者に実況中継されるだなんて。こんな展開になることを、彼は朝家を出る時、想像していただろうか?

私が寿だったら、あの日を最後に学校には行かなくなっていると思う。

でも彼は、次の日もちゃんと学校に行って、色々手続きとかして、バスケ部に戻ったんだなあ。つまり、三井寿はバスケットだけではなく、ずっとひた隠しにしてきた自分の欲望と真正面から向き合うことを決めたのだ。だからまた、大好きなバスケをやることができたのだ。

そう思うと、無性に泣けてくる。

三井寿になれない私にとって、自分の欲望と真正面から向き合うことは、なかなかに難しいことだ。その欲望を世間に向けて開陳するとなると、さらに輪をかけて難しい。

文学フリマ、というイベントの存在を知った時も、例によって自分の欲望否定装置が作動してしまい、ありとあらゆる「やるべきではない」理由に進路を阻まれ、長い間うじうじしてしまった。

でも今年は今までよりも、もうちょっとだけ外向きに生きていきたい気分だ。

「きっと出なかった方が……」「本が間に合わなかったら……」「宣伝も下手だし……」「一冊も売れないのでは……」等々すでに不安は尽きないのですが、あの時の三井寿よりは全然マシ、の精神を忘れずに、今後もやっていきたいなと思っております。





ちなみに私はスラムダンクで言うと、あきらめの悪い男・三井寿よりもエースキラー・南(豊玉戦に出てくる流川にエルボーを喰らわせた男)の方が断然好きです。


文学フリマ東京38

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