スピリチュアルに感じる怪しさってなんなんだろう?

そもそもスピリチュアルってなんぞや?(語句の意味をまずざっくり把握したいマン)

スピリチュアリティ(英:Spirituality)とは、人間に特有な心理的あるいは精神的活動の総体、または任意の部分を指す用語である。
「スピリチュアリティ」は日本人にはなじみのない概念であり、日本語で明確に説明できないこともあり、日本では一般における認知度はあまり高くない。
スピリチュアリティ(英語:spirituality)の語源は、呼吸や息、いのち、意識、霊感、風、香り、霊や魂を意味するラテン語のスピリトゥス(spiritus)に由来する。現代英語のspiritは、精神、心、霊魂、聖霊、生気・活気などと訳される、肉体との二元論的な意味合いを持つ。
これに対して日本語の 「霊」は自然界を含めてあらゆる「霊」が含まれるアニミズム的なものであり、一神教における二元論的なスピリトゥスとは異なる。

宗教学者・生命倫理学者の安藤泰至によれば、「スピリチュアリティ」という語を用いる人々は大きく三つに分けることができる。
・医療・福祉・教育・心理療法など広義のヒューマンケアに関わる人々で、スピリチュアリティの実践的重要性を重視する人々
・従来の宗教概念では捉えきれない現代社会の現象をスピリチュアリティという理論的分析概念で読み解く宗教学者
・従来の宗教に替わるような新しい自己=霊性探究の運動における一種のスローガンとして用いるニューエイジや新霊性運動の主唱者
Wikipediaより)

おそらく日本ではあまり元々概念的になじみがない単語だったため、今の日本では特に3番目の意味として捉えている人が多いのではないでしょうか。ちょっとオカルト的な。。。
そしてオカルトとはそもそもなんぞや。

ラテン語: occulere の過去分詞 occulta(隠されたもの)を語源とする。目で見たり、触れて感じたりすることのできないことを意味する。そのような知識の探求とそれによって得られた知識体系は「オカルティズム」と呼ばれている。ただし、何をもって「オカルト」とするのかについては、時代や論者の立場等により見解が異なる。(Wikipediaより)

そして私の中ではオカルトとカルトもごっちゃになっています。

カルト(仏: culte、英: cult)は、悪しき集団であることを明確にするために用いられる通俗用語である。良い意味ではなく、反社会的な団体を指す世俗的な異常めいたイメージがほぼ定着し、犯罪行為をするような反社会的な集団を指して使用される。
元来は、「儀礼・祭祀」の意味を表す、否定的・批判的なニュアンスを持たない宗教用語であった。
Wikipediaより)

Wikipediaの解説が正しいとは思っていませんが、少なくとも私はいかに単語の印象をメディアから刷り込まれているか、言語として本来の意味から結構離れてしまっているものもあるんだなぁ、(あくまでも私の頭の中の話)と思いました。

今の日本でスピリチュアリティについての意義が玉石混合になっていて、それをビジネスにしている人がいて(世の中できないことをお金を払ってできる人にやってもらうことはごく普通のことと思うのでそれ自体は私は否定しない、むしろ「友達だから家族だからタダでやってよケチね」みたいな欲しがりちゃんの方が厄介だ、当然殺人依頼とかはあかんけど)、その中のカルトとか洗脳とかそういう印象が先行しちゃっているのかなぁと、そしてそういうのに嫌悪感を抱いたりするのかなぁと思いました。私もカルトはいやじゃ。

例えば、
潜在意識やエネルギーを扱うことができます、という人から、
潜在意識やエネルギーがよくわからない人が何かをされるとき、
何をされているかわからない、理解できない、体感できない、
→知らないうちになんか変な洗脳されちゃうんじゃない?(ある意味その効果を信じてるとも言えますが)という恐怖心があるのかも。

そこに必要なのは信頼関係だと思う。
信頼関係は築くのは大変だけど、壊れるのは一瞬だ。
私は未だに人と信頼関係を作るのが得意ではない。時間をかけてゆっくりと、この人は大丈夫かな?と野生動物のように慎重だと思う(人見知りとも言う)。
人に自分を開示するのも苦手なので、こうやって思ったことを書きながら練習している。

話を戻して、信頼関係を築くためにありがちな、まずは気軽に参加出来るお茶会とか開いて、「ほーら怖くないでしょう?」みたいなの。
その人から出る言葉にもエネルギーが乗る、文章を読んだだけで分かるって人もいるけれど、私はやはりブログやらSNSの文章だけではなくて、実際に会ってみて、その方の雰囲気とか話し方とか色々感じてみたい、と思う。
実際、人と人のことなので、相性もあるし。医者や弁護士や先生や美容師さんのように。
あなたには合ったかもしれないけど、私には合わないかもしれない。
百聞は一見にしかず。昔の人はいいこと言うね。

でも結局オウム真理教も入口はヨガだったりして、危なくない風を装って日常生活に入り込んできて、少しずつ入信させて洗脳させて人殺しまでさせてしまった。

1つ怪しいかどうか、依存させて搾取しようとしてるかを判断する基準として私が思ってるのは、
「他を否定しない」
「自分のやり方の問題点や弱点も誠実に述べる(いまは逆にそれを利用して安心させる、信用させる手口もあるけれど)」っていうのもあるかも。

この黄金水は万病に効きますので、西洋医学は全てやめてください、とか言うのは私的にはアウト。
あそこの神様は偽物だ、うちの教祖様こそが本物だ、とかいうのもアウト。私は無宗教だけど神様はいるかなと思っていて、宗教戦争とかは実は同じ神様を別の小窓からそれぞれ見ていて、自分たちのフィルター(色眼鏡ともいう)を通して見ているから見え方が違っていて、それをあらそっているんじゃないかなぁ、と個人的には思っている。宗教について真面目に学んだことはないしこの先学ぶ予定もないので、ホントのところは不明です…
(最近の選挙活動は、ほかの候補者をdisるのが流行ってますけど、あれって自分には中身がありません、と公言してるようなものかと)

一方で私は第六感的な野生の勘のようなものはあるかなと思ってます。論文と実験結果からロジックを構築せよ!とトレーニングを受けて来た人間がこんなことを言うと、周りにいる同じような人達からバカにされるけど。

たとえば20年前に大学の栄養学の講義で聞いたのは、
実験用のマウスは、必須アミノ酸(自分の体内で合成することが出来ないので、経口摂取するしかないアミノ酸)が入っている飼料と、入っていない飼料を、すぐに感じ取って、必須アミノ酸が入っている飼料を食べるそうです。
ご存知の通りアミノ酸なんて匂いも色もないので、(味はあるかも?旨みとか)口に入れるまで分からないはずなのに。
20年前の話なので、今はそのマウスが必須アミノ酸を感知するものはなんなのか、既に見つかっているかもしれません。

しかし、少なくとも美味しんぼに出てくるような超絶味覚はなく、凡人の舌を持つニンゲン・私は、食べ物を口に入れて「むむっ、これには必須アミノ酸が入っている!」なんて分からないわけです。だから体に良くない食べ物でも「美味しいね🎶」とか言いながら食べてしまう。

そういう野生では生きるために必要だった感覚が、進化するに従って不要になって損なわれてしまった。

例えば足の小指の関節のように。
(うちの母は2つあるけど、私は1つしかない。退化😂)
でも今後人間はしっぽを生やす予定もないのに、大事に尾てい骨は持っている。(生物学的に意義があるのかもしれませんが。二足歩行のバランスを保つとか?)

そういう特殊能力的な、他の人より直感が優れているとか、私たちが普段見えているものと違うものが見えている人とか、
音に色が見える人、とかもいるとか。
昔はそういうユリ・ゲラーとか超能力とかテレビでもよくやっていたけれど、最近はヤラセとか、超能力が客寄せパンダみたいに消費されるのとかなんやかやで、全然見なくなりました。種も仕掛けもある手品もそんなにみない。

某宗教法人みたいに霊が乗り移って喋っちゃうのをウリにして大儲けとかしてると、ホントかなー?とか思ってしまうけれど。
でもスポーツ選手がその才能とトレーニングで良い結果を出してお金を貰うことには抵抗がない。
不思議。

その差はなんだろう?
信ぴょう性?
誰が見てもそうだ、と納得できることかどうか?
再現性?
でも再現性とかスポーツ選手でも体調が悪くてベストスコア出せないこともある。(科学の世界では再現性は必要なもの)

でも誰が見ても「そうだ!」って言うことだけの世界って、均一化されすぎてリングの貞子だらけの世界みたいでつまらなくない?と私は思う。
世の中がそういった均一化されていて安定を好む人もいることも知ってるけど。
人と違うことをするのが怖いとか浮いたらどうしようとか。
少なくとも私は浮きまくって生きてきたので、そういう恐怖はないかな。
むしろずーっと同じ生活が続く方が退屈だと思ってしまう。
その中にまた感覚を研ぎ澄ませて面白さや美しさを見出していくのも素敵だと思うし、そのためにマインドフルネスとかに興味を持ったのだと思う。

画家の描いた絵が、生前は見向きもされなかったのに、死後に何億って値段がついたり。今、絵画に何億って、お金払って買う人もいれば、お金持ってても全く興味が無い人もいる。

要はほんとか嘘かではなくて、みんな自分が好きなことに課金したら良いと思うのです。
あとはそれを一緒にやらない人を否定しないこと、無理に勧誘しないこと。

私は基本的にアンチワクチンとかも反対ですし(否定の否定で分かりづらいけど要はワクチンは公衆衛生学の観点から必要なものだと思う。でもこの世に生まれ出て数ヶ月の新生児がブスブス4本も一度に注射されてギャン泣きしてしまう新生児の辛さも分かる)、
怪しげなスピママ界隈とかのお戯れとかも苦手です。(怪しげか怪しげじゃないかが決まるのも、完全に主観的なもので信頼関係によるものだと思う…)
でもそういうのに真っ向から否定して「目を覚ますのよ!」とかやるほどの正義感はお産と共に失いました。
もちろん友人や関わりのある人に相談されたら、私の意見は述べるけど。
その意見を聞かなかった!時間を返して!とか思うような人には最初から近づかないようにしています。

そういう現象や特殊能力的なものはあるだろうな、とは思うけど、そこに依存したり、神様化・教祖様化したりして、囲い込みしたりするのも苦手だし(そもそも寄らば大樹の陰という思考がなくて、一匹狼気質なので、イナバの物置じゃないんだから、そんなにいいものでみんなが殺到したら潰れるでしょ?って思っちゃう)
そもそも無宗教だし。

駅で人を1人で待っていたら「あなたの血は汚れていますから浄化させて下さい無料です」とか言って布教してる人達(たぶん下っ端の人たちでノルマがあるのよね、かわいそうに)は、本当に失礼な奴らだな、てかそもそも許可なく他人の体の中の血の状態とか見るなや!(仮に見ることが出来る能力がある、という仮定のもとの話)

でもアインシュタインとかは直感だか神の啓示だかで、理論が追いつくのに何十年もかかるような法則を言語化(数式化?)したし、
魂が震えるような歌を作って歌っちゃうようなアーティストさんたちも、「降りてきた」という表現をされる方もいらして、きっとそうなんだろうなぁと思うし。

結局、私がスピリチュアリティの存在を信じていて、それらの中から自分の主観で取捨選択しつつ興味を失わないのは、
本来の自分(親や周りの価値観とか役割を演じるとかではなくて)を取り戻して、自分の感覚を研ぎ澄ませて、アインシュタイン的ななんか凄いところ・領域を垣間見てみたい、という好奇心なのかもしれない。

まとまりがなくなったけれど、おもったことをばーっと下書き的に書いたので、もちょっと加筆修正します(下書きに入れたままにしとけよw)

最後に私の瞑想の先生が対談した記事を貼って逃げます。

http://mindfulness-news.org/danger-spiritual/

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