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セルフィッシュ

このnoteは「玉城ちはる」と「なお」の共著です。
今回は「なお」の執筆です。

セルフィッシュ


この世の中では、様々な事件が起こります。
例えば、放火。
例えば、暴行。
例えば、殺人。
そして、その動機として、容疑者や犯人が挙げるものに
「死刑になりたかった」
という場合があります。

こういった事件を目にするとき、
それに対する意見として、よく
「死にたいなら一人で勝手に死ね」
といった意味合いのものも見受けられます。

確かに、自分が死にたいからと言って他者を巻き込むのは言語道断。
何の罪も犯していない人が殺傷されることもそうですし、
刑務所に入って税金で生活を保証してもらおうという魂胆があるのであれば、
それに対して私も憤懣を覚えます。

けれど、
「死刑になりたかった」。
つまりその人は死にたかった。
何故、死にたかったのでしょうか。
何が辛かったのでしょうか。
ニュースでは死にたい動機は端的な言葉で表現され、
「それくらい自分にもある」
と憤る方も沢山いらっしゃいます。
でも、本当に「それくらい」なのでしょうか?

「人間関係がうまくいかなかった」
のだとしたら、
「どのくらい」うまくいってなかったのでしょうか?
「仕事がうまくいかなかった」
のだとしたら、
「どういう風に」うまくいかなかったのでしょうか?

もし、
毎日15時間以上の長時間勤務の上、給料は手取り10万円以下、
パワハラを受けて何をしても叱咤され、虐げられ、
友達と会う時間もなく、お酒を飲むお金すらない、
そんな生活をしていたとしたら?
勿論これは例えばの話であって更に私の想像の話です。事実とは異なります。

しかし、以前にも書きましたが
自殺は他殺と同じ
なのです。
自傷も他傷と同じ。
相手が自分であるか他人であるかというだけです。

そういった意味で、
自傷し続けた10代の私も
死にたいと言い続ける今の私も
数ある事件の犯人たちと、なんら変わらないのです。

そして、死刑になりたくて犯罪を犯すことを考えたことが、
全く無いとは、私は言い切れません。

だから私は犯人たちに想いを馳せます。
あぁ、何がそんなに辛かったんだろう。
救われるにはどうあればよかったんだろう。
そんなことをする前に、
なにか、誰か、頼りにできる人はいなかったんだろうか。
そんなことしなくてもいいんだと、
あなたは悪くないんだと、
悪くなってしまう前に、加害者になってしまう前に、
言ってくれる人はいなかったんだろうか。
どんな事情があったんだろう。
障害は?
もしかすると軽度の知的障害だったんじゃないだろうか。
それでいろんなことが上手くいかなくて生きづらかったんじゃないだろうか。
死にたくても死にきれない、死ぬのが怖い、
誰か殺してくれと願いながら毎日毎分毎秒を生きていたんじゃないだろうか。

こんな想像をして、犯人の方にも被害者の方にも失礼かもしれません。
全然そんなことないかもしれないからです。
けど、
「死刑になりたい」と思って、
そのために「犯罪を犯す」という行動を
「実行」してしまう。
そこまでの道のりに、何もなかったとはとても思えないのです。

なら、何かあったなら犯罪を犯してもいいのか?
と問われたら、それは絶対にノーです。
ノーだからこそ、そうならないために何かなかったのかと思うのです。
そうなった理由があるのなら、
そうならないための対策があったはずなのです。

犯罪は、悪です。
犯罪というよりも、他人を傷つけることは、悪です。
それは絶対です。悪いことです。やってはいけないことです。
だけれど、だからこそ、
そうならないために何かできることがあるはずなのです。
糾弾以外に。
排除以外に。
私は、糾弾や排除だけでは「悪」はなくならないと思います。
私たちは糾弾されるのが嫌だから犯罪を犯そうと思わないのでしょうか?
違います。
糾弾されるから、で悪が収まるなら、もうとっくに犯罪なんかなくなって、
リーガルドラマも刑事ドラマも作られてなんかいないでしょう。
ということは、糾弾は「悪」を抑制するのに全く効果がないということです。
では、悪いことをした人は片っ端から死刑にして排除していけばいいのでしょうか?
これも違います。
何故なら、最初に書いた通り、「死刑になりたいから」という動機が存在するからです。
「死刑になりたい人」にとって、「死刑」はご褒美です。
そうなってしまえば、死にたい人はどんどん人を殺して他人の手によって楽に死ねばいいということになってしまいます。
それはおかしいですよね。
だから、私は糾弾も排除も意味がないと思います。

ならどうすればいいのか。

それは私にもわかりません。
ずっと考えています。
犯罪がどうしたらなくなるのか。
加害行為がどうしたらなくなるのか。
加害者に想いを馳せて、何があったのか想像したりはします。
でもわかりません。
こんな想像をすることですら、犯罪を助長しているかもしれない、と考えたりもします。
でも考えずにはいられません。
なにかあるはずだからです。
なにか、方法が。

「死にたいなら一人で勝手に死ね」
で、解決するならもうしていると思いますし、
私はこの言葉を、自殺への肯定と受け止めます。
更に言えば、私が「死ね」と言われたと思います。
何故なら私は死にたいからです。
これは最近の発見なのですが、
私のような死にたい人間でも、「死ね」と言われるのは些か傷つくもののようです。
何故傷つくのか、考えてもよくわからないのですが。

「迷惑だ」も、傷つきます。
迷惑をかけないようにかけないように頑張ってきたからだと思います。
例えば、オーバードーズ。
これは大変なことです。
私はやったことが無いので、詳しいことはよくわからないのですが
救急搬送され、胃洗浄を行うそうなのですが、それもまた大変に辛いことのようです。
先日、オーバードーズに関連した死亡事件が起き、その意見の中でこんなものを見つけました。

「迷惑すぎる。死にたいなら勝手にやって。本当に病床奪ってる自覚ある?」

目から鱗でした。
辛い現実から目を背けるための手法であるオーバードーズが、病床を奪っているだなんて。
しかし、考えてみれば確かにそうです。
オーバードーズ以外でも、自傷行為や自殺未遂で、
救急隊員さんや医療関係者さんの仕事を増やし、入院のため病床を確保します。
病床を奪っている。
「ほんとうに治療が必要な人」のための、病床を。
私は、奪っているのでしょうか。
私は入院したことがあります。
措置入院ではなく、自分で希望しました。
その時、全くそんな自覚はありませんでした。
ですからとても驚きました。
しかし私は同時に、とても傷ついたし、憤りも覚えました。
死にたいのだから、死ねばよかったのでしょうか。
あんなに周りは死ぬなと言うのに?
私が間違っていたのでしょうか?
生きたくもないのに生きてしまって、
「ほんとうに治療が必要な人」のための病床を奪ってしまって、
無駄に生きながらえて。
生きる意味なんて何もないのに。
私みたいな死にたい人間なんか一人で勝手に死ねばよかった。
いや、死ぬべきなんだ。

そう思いました。

正直に申し上げて、
そのように思わされたことが私には迷惑です。
こんなにも死にたい中で死にたい気持ちも死ねないフラストレーションも抑えて全身が痛くて動けなくたって苦しくたって呼吸して生きているんだ
と、殴りかかりたくなりました。
他者に――しかも見ず知らずの方にこのような感情を覚えてしまって、すこし恥ずかしい気もします。
けれど、私は私の尊厳を自分で守るために怒りを覚えた。
そのことに関して、私は自分のことを「成長したな」と思います。
今まで自分の尊厳を守ろうとすることがなかったからです。
常にすべての事象で私が悪く、私がいなくなれば解決すると思っているからです。
しかし私はこの件に怒りを覚えた。
私は生きてはいけないのかと。
つまりそれは、死にたい私が、自分を、生きていても良いのだと、認めた瞬間なのだと思います。


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