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あれほど辛かった日々は後にも先にもない

割とこれまで人が経験してないことを経験させてもらえてると思うんだけど、
後にも先にも、これ以上辛い思いすることはないだろうということがあったからで。

どんな辛い負い目にあっても、それほど大したダメージを喰らわないというのは、この経験があったからだと思う。

(※気分を害する内容があるかもしれないため、以降内容ご了承ください)

1.この命を守りたかった

旦那との元に宿った命。とてもとても大切にしたかった。
私はただでさえ、自分自身を大切にする術がよく分かっていなくて、
だからこそ目の前の命を何にもかけがえのない存在だと、宿った命を持って思った。この子が私の存在意義となってくれたんだと思った。

事情はわからない。妊娠初期は不安定で不正出血が続いた。よくある話だと思う。私は3人産んで、全員何らかの出血はあったと思う。
「そういうものだ」とも産院に言われていた。

だけど、症状は悪化するばかりだった。妊娠3ヶ月に入る頃、だんだん妊娠期が安定するか、しないかのタイミングで、とうとうその出血が塊となって排出されるようになった。

なるべく安静、という生活を余儀なくされた。初めてのことに不安でしかなく、ただどうしても移動が必要なタイミングでもあり、引越しが重なったこともあった。
ある日、子供の握り拳ほどの血の塊が落ちてきた。

ちょうど、引越しの移動をしていた時だと思う。血の気が引いた。これだけの塊は…マズいと思った。

産院に向かった先で言われたことは、死産だった。

既に妊娠12週を過ぎたタイミングでは、流産ではなく、死産と呼ぶのだそうで、
その時私は何を思ったのかは、もう全く記憶にない。

恐らくそのまま入院となり、子を排出する分娩となったのだと思う。
通常なら自然に陣痛がきて、排出されるらしいけど、
私の場合は全く陣痛が来なかったため、促進剤を何度も打った。

何度目かの促進剤で、急激な痛みが起こって、それ以降のことは、言葉には言い表せないほどの苦痛で、踠いて、泣き叫んで、出口のない、痛みしか遺ることがない、悲痛な時間だった。

「死にたい」と何度も叫んだのは覚えている。
後にも先にも、死にたいと思ったのはあの時だけだ。

どんなに辛い陣痛でも、その先に待っているのは新しい命と対面する幸せがある。でもその時の私には、この先に待っているのは、紛れもない我が子との別れだ。この痛みを耐えても、耐えなくても、死んじゃうんだ。

どうして私ばかりがこんな辛い思いを…どうして…どうして…
悲痛でしかない。長い、長い、悶絶する痛みの中で、ようやく解放された時には、半日は経過してたと思う。

そこには、手のひらサイズの我が子がいた。
絶対に忘れることはない。
これ以上、辛いことはもう二度と起こらないだろう、と思った。
今や子供が3人いるけど、どの陣痛も大したことなかったと言えるのは、当時の記憶があるからには違いない。

2.水死供養

死産を迎えてからは、1年以上も塞ぎ込んだ時間が流れた。どうしてあんなことが起こったんだ…辛い悲しみに苛まれていたからか、通常なら戻ると言われる生理も戻らない。
ストレスによるものなのか、この悲しみから早く解かれたい思いから、凄く焦っていたんだと思うけど、そこから次の子を宿すまでには本当に長い時間がかかった。

いわゆる世の中でいう「不妊症」というカテゴリーに括られた。流産や死産を経験すると、不妊症のリスクが高まるという、本当か嘘かわからないネット情報にいつも掻き乱され、自分の存在意義も分からないままに、時が過ぎるのだけを待った。

「不妊症」というカテゴリーに括られた時、感じる痛みはこの時に知った。期待のままに不妊治療の病院へ行く。毎週何らかの検査をさせられ、高額の費用を負担させられる。
ただでさえ、不安でこのまま産めなかったらどうしよう、と言う思いがある上に、毎回の検査の負担は相当高額だったと思う。

あの時は、街行く子供連れの家族を、正面から見ることができなかった。私には一生関わることができないかもしれないストーリーを目の前で繰り広げられる様子は、大変なことがあるのかもしれないけど、どんなストーリーであっても当時の私には僻みとか穿った見方でしか、子連れファミリーを見ることはできなかったと思う。

水死供養のお寺に毎朝参拝に向かい、何度も何度も失った命に手を合わせ、仏様にその子の幸せを願う。当時唯一私がルーティンワークとして毎日していたのがそれだった。

3.気休めのアルバイト

ただ、何もしない廃人状態でこのまま居続けるのは嫌だ、と思った時に、ちょっとだけ社会に繋がる組織に属しようと、アルバイトを何個か取り組んだ。
それこそこの時しかできないだろう、とティッシュ配りとか、クレカ登録営業とか、短期のバイトを入れまくった。

ある日、近くにあった子供英語教室の募集を見つけた。当時の私は、自分の子を持つ権利がないと思っていたから、
せめて誰かの子の教育の役に立てたら、そこで生き甲斐を見つけられるかもしれない。吸い込まれるようにその教室の講師になった。

子供たちは本当に真っ直ぐだった。
時々、反抗期のように授業にまともに取り組まない生徒もいて、
子供を育てたことのなかった私は、私の教育方法に全て原因があると思っていたのだけど、
今思い返せば、子供たちは「自分を認めてほしい」「愛してほしい」という気持ちの表れだったな、ということがわかる。

それは、子供を育てた今だから分かる表情や態度であって、当時の私には受け止めるだけの器がなかった。

それでも、最大限に子供が楽しめるだろうと授業を考える時間は、貴重な価値ある時間で、
もし子供が産まれなかったとしても、ここで得られる生き甲斐には代え難い意義を感じていた。

その後、主人の転勤などをきっかけに教員のアルバイトからは退いた。その生活の変遷の中で、自分の身に長女が宿った。

4.子供の発信をする理由

世の中には当時の私のように、不妊で悩んでいる人が少なからずいると思う。
当時の私は、子供の情報発信を完全に避けるようにして生活していたし、誰かの出産祝いもどうやって喜べば良いのか分からないくらい、複雑な思いで常に子という存在を認識しないようにしていた。

そんな私がなぜ自分の子についての発信をするのか。その気持ちを共感できるなら、発信すべきではないのではないか。そう思うこともある。

だけど、この経験をしているからこそ、そんな人の気持ちがわかるからこそ、発信すべきこともあると思う。

もちろん、何も伝えたいことがないなら、敢えて子供の発信をしようなんて思わないけど、私はたまたまこの障害という社会の課題に関わるきっかけがあったのだから、出来得る役割は果たしたい。

私たちに必要なのは理解だ。

そしてもう一つ言えるのは、子を天に見送った後、私は2人の障害のない子と、1人の目の見えない子を産んでいる。
流産や障害のあるなしに医学的な因果関係は証明されてない。ネット上にさまざまな憶測が飛び交っているけど、そんなものに振り回される必要はないと思う。私は流産も、不妊も、出産も、障害も経験したけど、それらには何の繋がりもなく、ただ確率論なんだな、と経験を通して受け止められるようになった。

障害のあるなしを母親のせいだと、自責に感じる母親がいると聞く。そんなの誰にでも可能性のある確率論だとはっきり言いたい。
何より今は、目の見えない我が子が私を選んでくれたことに本当に心からありがとうという気持ちしかないのだ。

5.理解と向き合う

死産をした時、看護師さんが沐浴をしてくれた。
手のひらに納まる我が子に、寂しくないようにってニット帽を編んでくれて、小さな小さな肌着を着せてくれた。
それと同じ布で繕われたお守りを形見にと、私に手渡してくれた。
沢山の心配りの中にあったのは、哀しみへの大きな理解だった。

私の手元にはいつも当時の想いと共に、心配りの詰め込まれたお守りがある。

最大限の理解を、沢山の人に向けられるように。


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