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みえるとか みえないとか


覚えている。
私がまだ小学生の頃、社会科見学でB型就労支援施設に行った。お菓子メーカーにお仕事体験に行く子もいる中で何で私だけ…?と思ったこと。木の温もりのある職場の中にアスレチック…?と凄く異空間だったこと。響き渡る声。そして経験したことのない環境は、やっぱり少し怖かった。

せっかく貴重な機会だったのに、当時の記憶では、お菓子メーカーへの職場体験が並列してしまって、障害への理解を深めることは出来なかった。今の子供たちはどんな体験をしてるんだろう。


長女に意を決して、就労支援のバスに乗る人をどう思うかと聞いたら、じっと見られるのは怖いと言った。
そうだよね…大人が伝えきれてないんだな。
もし世の中にそうした共創空間がもっと多くあったら、分断された社会でなければ、受け取り方は違ったかな。福祉施設や特別支援学校は絶対必要だから、必ずしも分けること全てを否定しているのではない。

でもこの分断のどこかに、自分と異質なもの、理解の及ばないもの、「普通」とちがうものを受け入れづらい何かが、根を張っているのは分かる。

幼い彼女に、本当に変質者でじっと見てくる誰かと、障害があってその動作を意図せずする誰かの区別がつくわけもなく。

あのね…と「障害」についての話を初めて丁寧にしてみた。彼女にこの違いは、多分まだ分からない。
でも、こんな話をちゃんと時折生活に混ぜて、目の見えない妹の世界と、そこに関わるあなたの世界がこんなにも絡み合う環境が、物凄く貴重でかけがえのない財産だって、いつか気づいてくれたら、とは思う。
少なくとも私は、いまこの家族の超ダイバーシティな環境に巡り合わせてくれた娘たちに生き甲斐と感謝しかないから。

いつか娘が自然とそう思えるような時代になっていたら、とは思う。


その意志に生かされている。
人は使命を持つと無敵になれるような気がする。
生きる意味をくれたのは、目の見えない娘だった。

意味がなくてもただ生きてるだけでもいいとは知ってる。それでもいい。生きる意味なんて自由でいい。
でも私はずっと意味がほしかった。役割があるって安心するから。

だからもし、生きる意味が感じられないと不安になった誰がが、役割を感じられるような社会になったらもっといい。全員を救うことは出来なくても、

違いを迫害や暴力のきっかけにするんでなく、
「なにそれ、めっちゃおもろいやん!」って思わず言葉が漏れてしまうような世界になっていたら、もっともっとおもしろい、次の時代が待っていそうな気もする。

想像もできないような。

子供たちは、ヨシタケシンスケさんの絵本が大好き。寝る前の読み聞かせで『みえるとか みえないとか』を読む時に、目の見える人が通る道のりを、見えない人ならどんな風に歩いて進むかを、花の香りや犬の鳴き声を頼りに進んでいくページがとにかくお気に入りで、我先に読むぞと取り合いになる。
目の見えない世界を想像して。分からないから面白い。分からないから知りたい。知ったらもっと楽しい。


目の見えない娘は、彗星のように私たち家族の元に現れた。
彗がケラケラ笑う。姉や兄がつられて笑う。笑い方なんて教えてない。自然に楽しいから笑うんだ。

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