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生還10・抗がん剤副作用②脱毛 ホラーなシャワールーム

長い黒髪はなぜあんなに怖いのか

前章後半から少し時間を戻して、1コース目の入院中のお話です。

抗がん剤副作用のひとつである脱毛も人によって様々で、すぐに始まることもあれば1,2週間経ってから始まることもある、中には脱毛があまりない人もいる……と色々伺っていました。
私の場合は、生来髪が細く柔らかいタイプで抜け毛も多かったので、科学的理屈は分かりませんが、なんとなく「抜けるだろうな」と覚悟していました。それでも、化学療法が終われば半年から1年、長くても1年半くらいで再生してくると言われていましたし、もし二度と生えてこないとしても吐き気に比べたら、脱毛は全く怖くありませんでした。
頭髪についてはウィッグや帽子をかぶるという手立てがありますから、なんなら、前より楽になるんじゃないか、とまで思った次第。洗ってトリートメントして乾かして、出かけるとなればブローしたりカールしたり結んだりまとめたり……ああ!こうして書いているだけで、よくやってたな~と我ながら感心するほどの手間がかかるわけです。私は長らく肩甲骨あたりまであるロングヘアだったので、時間も労力も、そして費用も余計にかかりました。それがなくなる、ならば、かえっていいんじゃないか、と。
脱毛は症状の出方同様、感じ方も人それぞれで、ショックを受ける方も多いのだと思います。しかし、私の場合に限って言えば、結果的にこの「楽になった!」という点が大きくて、苦痛は本当に少なかったのです。

ただし、心理的に平気なのはともかく、物理的にはただ楽になったというわけではありませんでした。
私の脱毛症状が出現したのは、かなり早い段階だったようです。なにしろ、化学療法開始の翌日からスタートしたのですから、まあ早いでしょう。
つまり、入院中に脱毛が始まったのです。
枕に毛髪がついていること自体は、抜け毛が多い日常から考えるにそれほど特別なことではありません。その量はおかしかったのですが。
「あ、始まったな、これ」と、本人は冷静であるものの、第三者が見たらぞっとするであろう、抜けた毛髪の量。自宅ならともかく、ここは病院ですから他人の目にも触れます。それでも、枕のこれはコロコロやガムテープでぺたぺたして掃除すれば済む話で、私自身が始末できる範囲のことなのです。
もちろん、ドクターや看護師さんだって事情をご存知ですから、この枕を見ても「はい、脱毛症状」と思うだけでしょう。様々なお世話をしてくださる看護助手さんや清掃スタッフの方々も、まあまあ見慣れたものかもしれません。床にも落ちてしまっていますから、清掃が大変になって申し訳ないことは申し訳ないのですが、特別驚かれるようなことではないでしょう。「そうね、この患者さん、抗がん剤やってたわね」と。

しかし。
問題はシャワールームです。
シャンプーを洗い流そうとしたそのとき、一瞬息が止まりました。
ごそっと……そう、まさに、ごそっ、と抜けます。
指に絡みついた分の髪が、そのまま抜けるのです。この感触は初めてでした。すごく痛そうですが、痛くはありません。それが余計に「ただごとではない!」と思わせる、確かに異様な感触。
さらに、排水溝付近にその分量の髪が集まると、もうえらいことです。
ちなみに、今回の入院前、脱毛対策の一環として肩甲骨までのロングヘアは顎のラインでそろえるボブにしました。ですから一本一本の長さは20数センチといったところでしょうか。
それでも、黒々と絡み合う、大量の濡れた毛髪――そのインパクトときたら、ホラー映画のメインビジュアルが作れそうな強烈さ……真っ赤なオカルト系のフォントで「シャワールーム」と書くだけでもう怖そう……

そして、この現場はベッドサイドと違い、病棟の共有スペースです。万が一、この状態のままでほかの患者さんが使用したら、卒倒しても不思議じゃありません。私は極度の近視なので、眼鏡をしていないとほとんどすべての物がすりガラス越しに見えるような状態です。その私でさえ恐ろしいと思うこの黒髪の束……普通の視力があるひとにどう見えるか、申し訳なさ過ぎて考えられません。ところが、そういう視力なので自力で掃除するにも限界があります。眼鏡をかけていられるベッドサイドなら、枕の上の抜け毛をちまちま拾うこともできますが、裸眼で何の道具もなく、このホラーな抜け毛を処理できるのか……?
頼れるのは、清掃担当のスタッフ様のみ。ただし、清掃が入るのはシャワールーム開放時間終了後の、一回だけです。
ふふ。
ふふふふふ。
ふふ、ふっふっふふぅ~!(……大丈夫か?)

はい。
分かっておりました。枕を見たときから分かっておりました。
だからシャワールームの予約を最終枠に変更したのですよ、私は!
ご迷惑をおかけするのは仕方ないけれど、それはできる限り少ない人数、かつダメージの少ないプロ、と考えて、清掃直前の最終枠を押さえておいたのです!よくやった、私!
できる限り自力で拾い集めてゴミ箱へ捨てましたが、私の視力では取りこぼしが相当あったと思います。排水溝の蓋を通り抜けてしまった分もかなりあるはずです。清掃スタッフの皆様にはご負担ですが、この方々はプロですから、きっと過去に同様の経験もお持ちでしょう。シャワーを浴びたかっただけのほかの患者さんが、ご自身の病気とはまったく関係ないホラー攻撃でダメージを受けるよりはいいはずです。そういうわけで、この後何度も繰り返す入院の間、私は「シャワールーム最終枠を絶対確保する女」として名をはせることになります。(幸い、この期間この病棟で化学療法を受けているのは私だけだったようです)

と、こんな感じながら私自身は、本当に吐き気に比べたら脱毛は苦痛じゃない、全然オッケー!なのでした。ただ、こうも簡単に――なんの抵抗もなく、頭髪が抜けるものか、と驚きはありました。トウモロコシのあの黄金色のヒゲくらいの感覚でするっと抜けるのですから。人間の、頭髪が。
これは古典文学好きとして、見逃せるものではありません。そう、ここで私の脳裏をかすめたのは――いえ、むしろ支配したのは――、かの有名な四谷怪談です。2022年8月に初めて入院して以来、理系トップアスリートたちに全面降伏してきたド文系が、ようやくホームの分野で心ゆくまで語り倒せるときを迎えました(……何が始まるのかな?)。

四谷怪談――それは、我が国における怪談の最高峰。怪談であり、悲劇であり、ある意味では痛快な復讐劇でもあり……。
この作品の醍醐味については、あまたの先人が妙をこらした筆致で語りつくしたところでありますが、敢えて末端から申し上げるなら「ビジュアルや音声を鮮明に加工する科学技術を持たなかった時代に、物語の質と語り手の技巧によって人々に臨場感あふれる恐怖を提供し、また、多種の優れた科学技術を有する現代に至ってなお圧倒的なインパクトを与え続ける点」にある、と思うわけです。ですから、その神がかった名作になぞらえるのは畏れ多いにもほどがある!とお𠮟りを受けることは重々承知。重々承知で言うならば――
これだ! と実感したのです。
数本ではなく、束になってごっそりと大量の髪が抜ける、非日常的な感触。命に直接かかわる大量出血でもなければ、意識に障害をもたらすほどの激痛でもない……しかし、生体にとって間違いなく異常と呼べるこの感触こそが、じんわりと精神に沁みこむような恐怖の正体なのではないか、と。四谷怪談という不朽の名作の根底に流れる、あの品格さえ感じる静かな恐怖は、人間に備わった生理的な正常性バイアスを覆すひとつの例を「髪」に見出したセンスに由来しているのではないか、と。
そして、です。
四谷怪談で「長い黒髪」に象徴されるのは、江戸時代の日本における女性とその神秘性だろうと思うのですが、これが現代のホラーアイテムとしても機能しているところが大変興味深いのです。「黒」が持つ色としての退廃的なイメージや、細くて長いものが絡み合う状態のビジュアル、そこから連想される感触の不安定感、そういったものが心理作用に働きかけるからなのでしょうか。これが黒髪ではなく、金髪だったらどう感じるのか? 夜の水場ではなく、真昼の砂場だったら? ……。

自らの抜け毛を前に、四谷怪談と現代ホラーについて、ひとり延々と妄想する児童書作家。おまえが怖いわ! と思われても仕方ありません。でも実際、私は脱毛の始まりにあたってこんな感じでありました。それに、ここから1年ほど経った現在(頭髪は若干以前とは様子が違うものの普通のショート程度の長さまで、眉毛はほぼ以前同様に再生)に至るまで、帽子やウィッグとの出会いやらなんやら色々なことが起きたのですが、心理的にはおおむね平穏でした。本当に、抗がん剤の副作用は、出現する種類、程度、その捉え方、すべてにおいて十人十色ですね。脱毛症状が一番つらかったと感じる方には、私の今回の手記はとんでもないものかもしれません。
でも、許してください。
この後、私は抗がん剤副作用の中でもかなり恐ろしいヤツを経験することになるのです……

……そう、この世とあの世のはざまを、垣間見てしまうような……

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