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なんもできないのにミュージカルやりたいわたしの、ミュージカルこじらせ史

ミュージカル好き黎明期

わたしはミュージカルが好きだ。
というより、歌と踊りと、キラキラした世界がとても好きだ。

たぶんこの”好き”は、“おかあさんといっしょ”の茂森あゆみお姉さんを見ることからスタートしている。
“おかあさんといっしょファミリーコンサート”のビデオは、幼児の頃暗記するほど見た。
体いっぱいを使って元気に踊って歌うお姉さんはとてもキラキラしていて、
「2階のおともだちー!こーんにーちはー!」と声をかける姿に心底憧れた。
同じクラスの子たちが欲しがったキャラクターグッズは「実際に変身できないからいらない」と思う、想像力が欠如している子どもだったけれど、
あゆみお姉さんになりきることは別だった。
傘を持とうものなら「にじのむこうに」を完コピして歌い踊っていた。

そのなりきりが影響したかどうかは不明だが、5歳からバレエを習うことになった。
踊ることはとても楽しく、発表会や公演では、お化粧をして衣装を着て、暗い舞台袖からライトでパーンと照らされた舞台へ出ていくことがとても好きだった。

ところが、わたしには運動能力も欠如していた。

(いちばん右でいちばん分かっていない顔をしているのがわたし)

9歳になる頃にはまったく上達しないわたしに母があきれ、バレエを辞めさせられてしまった。

そこから、完全に観劇側の人間となる。
友人の出ているバレエ公演、劇団四季、アニーなど子どもたちの出演するミュージカル…
年に何度もおめかしをして舞台を観に行くと目が肥えてきた。
そうこうしているうちに、もう素敵な舞台人になりきることもできないお年頃、高校生になった。

ミュージカルこじらせ初期

通った高校は私立の女子校であり、乗馬にアニメ、仏像製作(学校の宗派はカトリックだったが)など、独特な趣味をもつ同級生の中、目を引いたのは宝塚ファンの子だった。
こりゃあまずいと感覚でわかる。
歌と踊りとキラキラが好きなわたしが、歌と踊りとキラキラで構成された宝塚を一目見たら、確実に、沼にはまる。
在籍していたのが一応進学クラスだったため、勉強に差し支えると頑張って避けていたが、
避けても避けても宝塚ファンの人数がやけに多い私立女子校、半年もするとあっけなくはまってしまい、高校生活のうち2年半は、授業中も放課後もほぼ宝塚のことを考えて生活することとなった。

人間、あまりにも一つのものを考えすぎると、だんだん思考がおかしくなるのかもしれない。
わたしの場合は、宝塚の舞台に立つあの素敵な人たちとお近づきになりたい一心で、
どうにかしてあちらの世界に入れないものかということで頭がいっぱいになった。
幼い頃のバレエ以降、舞台には立ったことも立ちたいと思ったこともなかったが、この不純な動機でいったん思い始めると、ずっと自分は舞台に立ちたかったような錯覚さえおぼえた。

どうしても舞台に立ちたい。
机に縛り付けられるようにじっと勉強する生活じゃなくて、あのキラキラした世界で、身体をめいっぱい使って、脚を振り上げて踊りたい。口を最大限に開けて、お腹の底から歌ってみたい。

宝塚の舞台に立つには、宝塚音楽学校に入学しなければならない。
音楽学校の入学試験は中3〜高3までの4回しかチャンスがなく、背が高く容姿端麗で、基本的には歌もバレエもできる人しか合格できない。
背の高さは規程よりギリギリ1cm低い157cm、容姿は端麗でなく、歌は未経験、バレエは9歳で挫折したわたしに、入れる可能性などこれっぽっちもないけれど、
高校生のうちはまだ受験資格がある、
受かったら入れる、
あの世界に入りたい気持ちがなにより大きいはずなのに、なぜわたしはバレエや歌を練習できないの…
だんだんとこじらせがひどくなり、授業中ぼんやりしている上に提出物がいつも遅れるということで、とうとう多方面から本気で怒られてしまった。

結局、宝塚に入りたいなどと言い出せるわけもなく、舞台ではない元々の将来の夢を諦めることもできなかったため、どうにかこうにか気持ちを切り替えて勉強し、大学に合格することができた。

ただしそのかわり、宝塚音楽学校を記念受験することをひそかに企て、ラストチャンスである高3のタイミングで、誰にも内緒で決行した。

舞台に立つことを諦めたわたしに残ったのは、ただのミーハー気質である。
雑誌で見たことがある演出家の先生方の前でレオタードを着て、自分の出身地と、1cmサバ読んだ身長、合格ラインよりなかなか重い体重などを叫び、右向け右を数回やって(そのような試験内容なのです)、もちろん一次試験で不合格。
校舎内に入ることができただけでも幸せだったのだが、“雨の中熊本から独りぼっちでやってきた気の毒な受験生“として目立ってしまったらしく、のちのタカラジェンヌである音楽学校の生徒さん方に相当親切にしてもらい、
「美しいだけでなく、良い方ばかりだった!」
と舞い上がって帰宅。
これで舞台に立ちたい気持ちもミーハー気質の浮かれた気持ちも落ち着くと良かったのだが、どうにもこじらせがおさまることはなかった。

ミュージカルこじらせ中期

長い上に中身のない、ほぼ失敗談のようなわたしの大学生活をかいつまんで記述すると、
・宝塚のような衣装で歌い踊る地元の劇団に入団するも、他団員との年齢の開きが大きすぎ、冷遇されすぐ退団
・上記の劇団に入っていたため大学のサークルには入り損ね、友だちがほぼできずじまい
・結婚式場でバイトを始めると、声がでかい、楽譜が読める、宝塚ファンということは歌とか好きでしょという理由で、別部署である聖歌隊に入れてもらい、稽古をつけてもらって歌う仕事もさせてもらう
・そのバイト代を観劇のための遠征費とチケット代で消し去る
などである。

転機は大学院生の頃、知人からミュージカルのワークショップがあるという連絡をもらったことだった。
高校生の時点で諦めがついていたのと、地元劇団で嫌な思いもしたため、舞台への執着は若干落ち着いてはいたが、
「そんなチャンスがあるのなら1回やってみようか」
と、参加することにした。

参加したのは、ヤングなアメリカンズに歌やダンスを教えてもらい、2日でミュージカルを作り上げるという、無茶だけれどもめちゃくちゃ楽しいワークショップだった。
聖歌隊の経験から歌には若干の自信を持っていて、大きい声で気分良く歌って参加していたところ、最終的な発表の場であるショーで、歌のソロパートを任せてもらえることとなった。

ちょっとこれ、高校生の頃やりたかったことじゃない?
歌ソロってかっこよくない?
と調子に乗り、リハーサルは調子良く終了。
自分の歌をたくさんにの人に聞いてもらえて、褒めてもらえるのはかなり楽しく、
こんなことずっとやってみたかったの!と感激さえしながら本番を迎えた。

(ウキウキのリハーサル)

しかし本番歌い始めると、覚えたはずの歌詞が出てこない。
慌てて歌詞を見ようとしても、その紙もうまく取り出せない。
他のメンバーが後ろからカバーするように歌ってくれて、その場面は通り過ぎてしまった。
どうしても立ってみたかったミュージカルの舞台は、大失敗に終わった。

このショックは大きかった。頭が真っ白になった。
高校生の頃願ってやまなかった舞台の世界にせっかくおじゃまできたのに、ミュージカルを体験させてもらえるという滅多にないチャンスだったのに、どうしようもない大失敗で終わってしまった。
もう取り返しがつかない。
ていうか、わたしかっこ悪い…
虚無感に襲われながらとぼとぼと帰宅した。

その結果

「このままで終わらせてたまるか!」
と、舞台に立ちたい思いをMAXでこじらせることとなった。

ミュージカルこじらせ末期

素人でもミュージカルの舞台に立てる場所探しは大変難しく、とくにわたしの住む九州で見つけるのは困難を極めた。
やっと見つけたのは、コモンビートという、素人100人が100日間でミュージカルを作り上げる、これまた無茶なプログラムだった。
無茶だけど、
「これしかない」
と参加を即決。
知り合い0。どんな団体がやっているのかも、ぶっちゃけよく知らない。
しかも開催地は鹿児島のため、期間中は稽古のある週末毎に自宅のある熊本から鹿児島に通うことになる。
どうかしてると言われたが、知らん知らん。
たしかに毎週の新幹線代を捻出するのは学生にとってかなり厳しいけれど、どうしてもミュージカルをやりたいんだ。

参加を決めた直後、既にプログラムが開催されていた福岡で、同じ演目を観る機会があった。
先述の通り目が肥えていたのだが、素人とはとても思えない表現、歌、エネルギーに圧倒された。
素直に感動した。
この作品に近々自分が出る!という事実に、うずうずが止まらない。

プログラム開始が待ちきれない気持ちになり、最初の関門であるオーディションの準備をすることにした。
好きな曲を1分歌いなさいという課題に、そのミュージカル本編で使われている、いわゆる“一番良い役”の子が歌う曲を選んだ。
一度聞いただけで頭から離れないほど、印象的で魅力的な曲だったためだ。
自分の楽に出る音域より若干高いが、聖歌隊で習ったことを思い出しながらくり返し練習し、ある程度歌えるようになった。

オーディション当日、この選曲は大間違いであることが分かる。
自分が歌う直前、
「あ、この審査員の人たち、これまでこの曲を上手に歌う子たちを散々聞いてきたんだよね」
と余計なことに気がつき、
そう思い始めたが最後、またワークショップのときのように失敗したらどうしようと思うと
体が震えて止まらなくなった。
結果、声もぶるぶるに震えてまたも大失敗。
望んでいた役を得ることはできなかった。

こう書くと、また残念な経験をしたようだが、実はそうでもなかった。
プログラム中、それまでやりたくてしょうがなかった、身体をめいっぱい使って踊り、お腹の底から声を出して歌う機会が十分にあった。
それ以上に、このプログラムを通して知り合った人たちとの関わりが、その頃のわたしには必要で、ありがたいことだった。

素人がミュージカルに出るには、少なからぬ思い切りと、生活に何かしらの影響が出たとしてもやるという覚悟が必要となる。
18歳の大学生から90歳のおじいちゃん(サムネイルの方です)まで、
わたしのような
「とにかくとにかくミュージカルがしたい!」
という気持ちとは違っても、
同じくらい何か大きな思いを持って、それぞれが参加している。
もちろん、仕事やご家庭、体調などの状況は一人ひとり違うため、
練習できるメンバーで補い合いながら舞台の完成を目指していく。
ずっとミュージカルが好きで、舞台に対しての独りよがりな理想が大きくなり、がちがちの頭でっかちになっていたわたしは、この多様なメンバーと出会い、なにかほぐれたような感覚があった。

(通し稽古前の円陣。あたたかい)

プログラムの集大成となる公演が終わってみると、観に来てくれた友人だけでなく、知らない人にまで、
「嬉しそうで良い顔をしていたね」
「舞台が好きなんだね、出られて良かったね」
と声をかけてもらえた。

なんと。
“わたしミュージカルやりたかったんです!”
“だから今嬉しいです!”
という気持ちを受け取ってくれる人がいる、知らない人まで一緒になって喜んでくれるとは。
何が起きているんだと衝撃を受けた。

これまで独りぼっちで気持ちを持て余してきたわたしが、初めて受け入れられたような気持ちになった。
舞台に関して、初めて満足感というか、このこじらせたわたしでも幸せな気持ちを感じることができた。

(最大限に浮かれているわたくしです)

と、この辺で終われるとよいのですが。

終わらないんです、こじらせているので。
まだまだわたしの気は済まないのです。

その後、同じプログラムにもう1回参加しました。私が観て感動した福岡で。

今度はオーディションもうまくいった。
わたしは今でも子どものための歌が好きなので、肩肘張らず、自分の好きな童謡“歌えバンバン”を歌ったところ、窓が共鳴してピシピシいうくらい上手く歌えた。

そしたら今度はソロ歌のある役が付いた。
1,500人のお客さんの前でアカペラソロを歌う役。
山崎育三郎さんのコンサートでも使われた、豪華なホールで3公演。
ワークショップや前回のオーディションの経験から、
わたしは肝心な時に力を発揮できないのかもしれないと感じていて、
とても荷が重すぎるような気がした。

また失敗するかもしれない。
わたしがみんなの頑張りを台無しにしてしまうかも。

不安は直前まで消えなかったが、今回も共演したメンバーに救われた。
体がぶるぶる震えそうなときは、メッセージや手紙や電話で、かけてもらった言葉が支えてくれた。

人生最大の緊張を、どうにかこうにか全部飲み込んで、無事に3公演歌いきることができた。

肝心な時に力を発揮できない
という思い込みが解けたような、清々しい気持ちになれた。
とてもうれしい。

(思い出の場面。ここで感じたことは忘れられない)

なのだけど。

まだどこか、何か足りない。

なぜかって、自分の地元、熊本でできていないから!

そしてこじらせはつづく

自分の好きな表現を自由にできる場所がなかったからこそ、見つけた今は地元でしたくてしょうがない。
贅沢を言うなら、わたしの友人や、家族や、大切な人たちと一緒にこの楽しいことをやりたい。
だって大人になって、思いっきり体を動かしてクタクタになって、その日を振り返りながらすこーん!と寝られるようなこと、ある?

だから、共演したメンバーに猛アピールして協力者を集め、
”熊本コモンビート準備委員会”
を非公式で勝手に立ち上げた。
本番公演で使いたいホールや練習場所の体育館探し、
なぜ熊本開催をしたいのかという意見のすり合わせなどを行い、
近々本部に提案するぞ!と言い合っていた今年の春

新型感染症が猛威をふるい始めた。

直接会って話し合ったり、ホールを見学して回ることはできなくなり、
残念だけれど、活動は自粛を余儀なくされた。

ただ、わたしたちよりもっと残念な思いをしている人たちがいる。
四国では、公演を3週間後に控えた日に、公演の中止とプログラムの終了が決まったそうだ。
他の地域でも、2020年内のプログラムは全て中止が決まった。

先ほども書いたとおり、このプログラムには、様々なバックグラウンドを持つ人が参加している。
ダンスも歌もお芝居もやったことがないところから舞台を完成させるまで、伝えたい思いや表現する楽しさを見つけたキャストは、それを観てくれる人に伝えるため、本当にほんとうに、本気で取り組むのだ。
その人たちが舞台に立ち表現することを、諦めなければならないこと
感染症の拡大防止のためとはいえ、辛い。

中止になったプログラム参加者の気持ちが分かるなんて、言ってほしくないと思うけど、
表現したいのに、体を目一杯使って歌ったり踊ったりしたいのに、それができない歯痒さは、痛いほど分かってしまう。
わたし自身もその歯痒さの渦中にいるし、舞台に立ちたいと言い出すこともできなかった、高校生のわたしの感覚も蘇ってくる。

また笑って好きな表現をできるようになるのか、
いつできるようになるのか、
分からないことに耐える時間は辛い。

だけど
こうやって文章を書いて表現することで、ほんの少しだけ癒されている自分に気がつく。
わたしは踊れないけれど、うちで踊って表現する人のことを素敵だなと思う。

できないことは多くなったけど、なんもできないわけではない。
どうにか状況が好転する日まで、ごまかしごまかししながらでも、
自分の気持ちを保っていけるだろうか。

ひとつだけわたしの救いになるのは、ずっと我慢した末におもいっきり表現できたとき、めーっちゃ楽しいと知っていることだ。

これからも、踊りも歌もお芝居も、なんもできないのにミュージカルやりたいわたしの、こじらせはつづく。

(公演候補地を背に合成写真。いつかほんとの集合写真を)

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