「癒しの哲学」11月”魔術と癒し” ②聖女の癒し
11月の癒しの哲学テーマ「魔術と癒し」 ②は「聖女の癒し」
聖女といえば、マリア様?というイメージしか沸かないワタシではありますが、聖女はまだまだおられます。
では、さっそく学びに行ってみましょう!
★聖母マリア→イエスキリストの母。
★マリア信仰
カトリックには、「聖母マリアへの信仰」というものがある。プロテスタントには、ない。
★聖母の出現
聖母マリアが人々の前に現れたとされる出来事を言う。なお、聖母マリアがこのように特定人物や、一般大衆の前に姿を持って出現することを顕現(けんげん)とも言う。民衆に伝えられている逸話は数千に渡るが、カトリック教会が公認したのは24ほどにすぎない。
カトリック教会には従来、聖母マリアは受胎の瞬間から原罪を免れていたとする教えがある。これを「無原罪の御宿り」という。
原罪を免れているということは、罪の結果である死を免れることになり、さらには死の前兆であり、老いも免れていたことになる。このために、西ヨーロッパのカトリック圏で描かれる聖母はみな若い女性である。
そして聖母は生涯の終わりに死ぬのではなく、身体とともに天に上げられたとされる。 これを「聖母被昇天」という。
★ルルドの奇蹟
2004年、ヨハネパウロ2世がルルドを訪れ、このように祈ったそうです。
「ルルドには特別な神の恵みがあるように思われます。簡潔で分かりやすい一方、本質的なものでもあるそのメッセージは、清らかで勇敢な心の持ち主だったひとりの少女によって、明確に伝えられました。ここでわたしたちは祈ります。祈りたいのです。神の許しを得たいのです。聖体をあがめたいのです。ここには、貧しい人びとと病気の人びとのための貴賓席があります。ここは特別な場所なのです。」
・ベルナデッタ・スビルー(フランスの聖女)
南仏のルルドで聖母の出現を体験し、後にヌヴェールの愛徳女子修道会の修道女となる。
★キリスト教弾圧の時代の聖女
・聖アグネス
・聖フィデス
・アレクサンドリアの聖カタリナ
・アンティオキアのマルガリタ
・聖バルバラ
・聖セシリア
・シチリアのアガタ
・メリダのエウラリア
聖女とは、生前の美徳あふれる行動や死後の奇蹟によって、教会に多大の貢献をした女性を指すが、時代によってそのタイプはおおきく異なる。
初期キリスト教時代には、殉教してキリスト教を守り、その真実と優越性を明かした殉教者が主に聖女となった。
七世紀後半から八世紀前半になると、聖女とされるにせよ、されないにせよ、女性たちが聖性をもとめて門をたたいたのは、まず「修道院」であった。
★修道女の生活
修道女は清貧・貞潔・服従を誓い、それを守った。貞潔とはキリストに身をささげたことから、処女を守りとおすことをいう。 服従は、絶対権力をもつ修道院長への服従である。彼女たちはきびしい禁欲をし、また、典礼生活では、時間ごとの聖務日課で祈りを唱えた。それらのくり返しで、魂を完徳にみちびいたのである。
★教会博士
教会博士は、キリスト教ローマ・カトリック教会において、聖人の中でも特に学識にすぐれ、信仰理解において偉大な業績を残した人に送られる称号。現在までにこの称号を受けている聖人は35名に及ぶ(うち女性は4人)。
4人とは大テレジア(1515~82)とシエナの聖カタリナ(1347~80)、リジューのテレーズ(幼きイエスの聖テレジア)、ビンゲンのヒルデカルト修道院長(12世紀ドイツ)。
・ビンゲンの聖ヒルデガルト
医学・薬草学に強く、ドイツ薬草学の祖とされる。才能に恵まれ、神学者、説教者である他、宗教劇の作家、伝記作家、言語学者、詩人であり、また古代ローマ時代以降最初(ギリシア時代に数名が知られる)の女性作曲家とされる。
・シエナの聖カテリーナ
身体に現れる有形の病、火事に対する守護聖人。イタリアでは 、流産、看護師、病 人の守護聖人。イエスと神秘的結婚をする。
★聖なる拒食症
中世から近世にかけて、現代の拒食症ときわめて類似した症状が、聖女たちのあいだにひろく見られた。これを「聖なる拒食症」と呼ぶ。 しかし目標はまったく異なる。聖女たちは、痩せることをよしとしたのではまったくなく、魂の救済・完徳を目標としたのである。代表ともいえるのはシエナの聖女 カテリーナ、アビラのテレサ、リジューのテレーズ、マザー・テレサ。
★マザーテレサのことばより
憎しみのあるところに愛を
罪のあるところにゆるしを
争いのあるところに一致を
誤りのあるところに真理を
疑いのあるところに信仰を
絶望のあるところに希望を
闇のあるところに光を
悲しみのあるところには喜びを
慰められるよりも慰めることを
理解されるよりも理解することを
愛されるよりは愛することを
以上2回目の学びでした。
【まとめ】
ワタシにとっての「聖女の癒し」とは?
これだけの聖女がいたのですね。キリスト教も男社会ともいえる中で、聖女といえる女性たちの存在が人々を救っていたと思うと何か誇らしい気持になりました。
また聖女といわれた人がいて、魔女といわれた人がいる。魔女はのちほど学ぶことになるのですが、聖女が光の存在とするなら、魔女は闇の存在。闇を見ないと光の本質がわからない。その関係性、まっすぐしっかり見れる力が癒しの力ではないかとおのころ先生もおっしゃっておりました。
魔女の癒しも楽しみになってきました。
しかし、マザーテレサのことば、こころに響きますね。感謝。