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お花をかざる、そなえる

同僚からお花をいただいた。今の職場を辞めることになったから、送別の意味を込めて。

といっても、辞めたくて辞めるわけではなく、契約年数が終わるために、退職することになったのだった。今の職場に入ったときは、なかなか慣れなくて、でもまわりは大先輩ばかりで、いろいろ教わりながらも厳しいことばをかけられ、精神的にタフだった。(体にもきた) やがてコロナ禍に入り、混乱の中にあったけど、ICTスキルのレベルアップができ、また、業務量が減ったことから自分を見つめ直せて、新しい挑戦につながった。(それはまだ継続中) そして様子を見ながらアフターコロナとなり、契約の切れる今夏を迎えた。

私は教える仕事をしているので、学期単位で動いている。4月から7月(きのう)までフルマラソンのごとく動き続ける日々で、お花をいただいてからようやく、「学期最終日だ」と気づいた。



で、お花の話。初めて今の家で花を飾った。

もともと実家では常に玄関やリビング、和室に花が活けられていて、私から母や祖母に折に触れ贈ることも多い。(誕生日とか母の日とか) 祖母は華道の先生をやっていて、母もお花が好きで、2人競って飾っているのが実家の環境だった。

植物に触れるのはいいことだと頭ではわかっていたけど、私の部屋は物であふれていてまともに置ける場所がなく、水を替えるだとか、長持ちするように花鋏で上手に茎を切るだとか、そういうのができないし面倒だろうと思ってあえて避けてきた。自分の面倒を見るだけで精一杯で、花を気にかける余裕がないだろうと思っていた。自信がなかった。

きのうお花をもらったときも、(うわー、どうしよう…)とちょっと思ったのだけど、いざ花束を見ると、ヒマワリやシャクヤクが元気でかわいらしく、花弁から溢れる自然の力強さみたいなものを感じて、これはがんばって飾らなければ申し訳ない、と思った。

家に幸い、使っていないボトルがあったので、花の色と合わないけれど、水を入れて飾ってみた。(母曰く、ほんとは長持ちするように、飾る前に何かしなきゃいけないらしいけど、よくわかんないので、そのまま飾った)

飾った花を見ると、さっきの「申し訳ない」という消極的な気持ちから、「すてきだな、かわいいな」という前向きな気持ちに変わった。最後までぜひ、愛でたいワと思った。このあとしばらく、心に余裕が生まれて、気持ちが潤う気がする。

「花を飾る」ことができるのは、心に余裕がある人で、私は仕事と自分の生活だけで手いっぱいだから、無理だと思っていた。けど、「花を飾る」行為自体が人に余裕を持たせるのかも、と思った。


同僚以外からもお花をもらった。教え子たちから。メッセージの寄せ書きとともに、小さい花束をもらった。

しかしよく見ると、菊の花…!

教え子たちはみな外国人なので、日本のスーパーで当たり前に売られている仏花を「きれい!」と思って買ってしまったらしい。でも彼らの気持ちは本当にうれしかったので、ありがたく頂戴。(今後のためにも、菊の花の意味を教えたら、みなぴえん顔になっていた)

お花、うれしかったけど。やはり菊の花を家に飾るのは気がひける、仏壇もないし、ということで、近所のお寺さんに持って行ってみることにした。お寺の裏にお墓がたくさんあるので、何とかなるだろう、ということで。

それで今朝、近所のお寺に初めて足を踏み入れた。檀家さんではないし、親族のお墓がここにあるわけではないので、前は毎日通るけど、入るのは初。

共同のお墓があったので、そこに飾らせてもらった。やはり適材適所、ここでは菊の花がよりきれいに見えた。そしていちおう手を合わせる。

私はわりと、お彼岸やお盆に自分ちのお墓参りをきちんとしてきたタイプで(親や祖母にいつもついていく)、お墓参りすると何となくシャンとするというのが体に組み込まれているようで、今日は縁もゆかりもないお墓に行ったのに、シャンとなった。信仰とはこういうことなのか?リセットとか、コーピングとか、なんかそんな感じ。ひと息つく、と言うとちょっと違うけど、心に静けさが灯るというか。

そのお寺さんは町中にあるのに、隔離されてる聖域みたいな、不思議な空間に感じた。


お花にまつわる行為。かざる。そなえる。忙しい現代人に、実は必要なことかもしれない。心が豊かになる、有機的な行為なのかもしれない。


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