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ぎりぎり族

子どものころから、なんでもぎりぎりにしか、できないタイプだ。小中高の夏休みの宿題は、8/31に終わったためしがない。毎年、8/30くらいからはじめて、べそかきながら読書感想文を書き、べそかきながら木工品を作り、べそかきながら問題集を解いた記憶しかない。

今でも覚えている、泣きながら読んだ芥川の杜子春。「書けないよおおお」と泣いたら、自業自得!と母に怒られて、特に手伝ってももらえなかった、あの夏の暑い日。(ばあちゃんは気の毒がってくれた)

あと、暑い日に庭で「こんなん前日に作る子なんて、居ないんだよ!」と母に怒られながら手紙差し?にペンキを塗ったのも覚えてる。

ジュディマリとホワイトベリーを聞きながら数学の問題集を解いてたら、「そんなの聞いてたら集中できないんじゃん?」と母に小言を言われて、イライラして結局解答をノートに写すことにしたのも覚えてる。

「8月中は家族で出かける用事がけっこうあるから、7月中に宿題終わらせたんだよね〜」と言ってた同級生がいたんだけれど、すごいとおもった。でも、いまだに理解不能だ。

ぎりぎり族は大学に入ってもぎりぎり信仰を貫き、べそかきながらレポートや卒論を書いた。大学院のときは、べそかく余裕すらないほどに追い詰められ、しめきり直前の一週間はほぼ毎日徹夜をし、目がばきばきになった。ばきばき族。

でも、わたしのよくないところ(いいところ?)は、しめきり数分前には絶対終わらせられることだ。火事場の馬鹿力がいやでも発揮できる。だから、しめきりをやぶることはほとんどない。そしてこれが変に成功体験になり、次しめきりに追われるときも、かならずぎりぎりスタートになってしまうのだった。

仕事がら、授業をするだとか、何かを発表するだとか、そういう機会が多くて、日常的に準備やしめきりに追われている。これもまた、ぎりぎりに着手して、十分な準備時間を持たないまま、作業をする。いつも冷や汗をかく。そしてなんとか間に合わせる。

最近、20代前半のころに比べて、しめきりに追われることのストレス負荷がかなりかかっている気がしている。

若いころは、「ええい、どうにでもなれ!」「ちょっと出来が悪くても、出しさえすればいいさ!」「えいや!」という気持ちで、質の高さを求めず、とにかくなんとか形にすることを優先していた。だから、そこまでストレスはなかったようにおもう。(大変は大変なのだが)

でも今は、「出来が悪いのは、プロとしてどうなのか?」「質が低いと、評価が下がって、次の仕事につながらないかも…」と、短い時間の中でよりよくしようという志向があり、それ自体はいいのだけれど、プロセスの中で知らないことや足りない部分が多いことにがっかりして、勉強不足を痛感して、それでもいいものを作らなければならないプレッシャーみたいなものがあって(勝手に自分でかけてるんだけど)、それがかなりのストレスになる。

それなら、もっと早くからやればいいじゃんと言う自分がいるんだけれど、でもさあ、ぎりぎり族は、ぎりぎりにならないと始められないし、ぎりぎりにならないと驚異的な集中力とスピードが出せないんだよ、と言う自分もいる。直前までは、ぜんぜん関係のないことをしたり、ぼやっとしたり、寝たりしたくなっちゃうのだ。気持ちがタスクに向かないのだ。

今年に入って、しめきりの伴う大きいタスクが4つあったんだけれど、そのうち、明日しめきりの最新のものが、さっき終わった。今、すごくほっとしている。(まだこれから先方からのフィードバックをもらって、直す段階があるんだけれども) これもまたぎりぎり族の特性を発揮したのであった。

今週に入ってから毎日、自分のぎりぎり族っぷりを悔いた。「時間足りなくてつらいから、早くやりはじめればよかった」「やはり勉強不足だ、早く勉強からはじめて、やればよかった」「あのときぼんやりしてた時間を有効に使えばよかった」。たくさん後悔した。

でも、とりあえず一段落ついた今は、「まあ、早い段階ではまだやる気スイッチ入ってなかったしね。とりあえず終わったし結果、オーライ!」なんて考えている。あんなに悔いたのに、学んでない。たぶん次も、再び学ぶことなく、ゼエゼエ言いながら、取り組むだろうな。たぶんもう一生、この性質は変えられないだろうな。やれやれ。

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