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ゲシュタルト療法ってなんじゃらほい【体験レポ?】

ゲシュタルト療法を受けてきたよー!

この感覚を忘れないうちに、何かを残しておきたいと思って急いで指を走らせてます。

「ゲシュタルト療法を受けたら違う世界を見れるらしい」と聞いて、「どっかすごい世界にいける」ような気でいました。「今日これから私どこにいけるんやろかー!」みたいな。

そして、幸運にも最後、4回目のじゃんけんで運が回ってきました。日本におけるゲシュタルト療法の第一人者ももちゃんにセッションをしてもらえることに。


聞かれたことに、ぽつりぽつりと話しました。
力が抜けておもったままの言葉が出てくるときと、グッと何かを押し込めて言葉を止めてしまうときがあるのを自分でも感じながら話しました。

昔から「悲劇のヒロイン」を抜け出せなかった私。
こんなことしても何も生まれないと思いながら、なんで辞められないんだと苦しかった。
そして家の中に こんな心安らがない存在がいて、「夫はいずれ離れていってしまうんじゃないか」「子供を怖がらせてしまうんじゃないか」って何かに怯えていた。

ゲシュタルト療法を受けたことで、その背景にあると思っていた「期待」や「誰かの想い」だと思っていたものがただの自分が作り上げた幻想だったことに気づいた。
そんなものそもそも存在しなかった。


1時間ほど経ってももちゃんに「じゃ、これで終わりでいいですか?」と聞かれた瞬間に思ったのは「え、これでいいん?完結してる?終わりでいいですかっていうか、終わってますかね?(失礼)」ってこと。まさに拍子抜け。
どっこも別の世界にはいってないし、自分のいる場所そのまま。

例えるならば、今までは、使い方のよくわからない視力検査用メガネをつけて、度を合わせるためのレンズかちゃかちゃ差し替えて、「あれでもないこれでもない」ってぼやけた世界を見ていた感じ。

「ねー、そのメガネ外してみる?」って聞かれて、外してみたら
「え。あ、外してみても目見えるわ。ってか外した方が良く見えるってこと?え、私目悪いとおもってたんやけど、ちゃうかったん?どゆこと?」ってな感じ。

こんなやつ

私の今までの生き方や世界の見方に、馬鹿馬鹿しさを感じました。

親も、夫も、子供も、すんごく幸せそうな顔で笑っているのに、なぜか私ひとりが不幸せぶっている。
レンズいろいろ試して、どんどん視界悪くして。

「あれ、私何にこだわってたんだっけ?この重ったいメガネごと手放してみたらなんかめっちゃそのまんまで幸せ、、ってこと、、、?」ってなって。

その呆然とした気持ちを抱えたまま、外の空気を吸ってみたときに、「あ、呼吸しやすい!体が軽いぞ!」と気づいたんです。

なんか体が軽くて、今日東京で満開を迎えた桜が驚くほど綺麗で(それまでも何度も見てたのに)、よくわからんけどスキップしたくなって。

幸せって思わなきゃ、って言い聞かせてた自分じゃなくて、「あー幸せ…」ってぽろっと自然に口から出てきたことに驚きました。

そしてその後のアルコールセッション。
妊活・妊娠・出産後、多分3年以上ぶりにお酒を飲みました。
「なんか今夜お祝いしたい」って思って、なんとかなるわ!って見通しが立ったので思い切りました。めっちゃダサいメガネ外せた自分、おめでとう。てか、このダサいメガネで毎日を過ごしてたの、ウケる。

後日、夫にこの体験を話しました。
「どんなことがあったら私と離れたいと思う?」って聞いたら「もう11年も一緒にいれば、音楽性の違いみたいなことで離れることはないかなぁ。」って答えでちょっと笑った。(笑)
そっか、やっぱり私はストーリー作り上げてただけだった。

最後に、”拍子抜け”をした理由は、
私自身で考える余白 = 宿題 を残してくださったから感じたことだったんだとハッとしました。ずっと自分にとっての答えを探していて、どこかにその答えがあることを期待していたけど、そういうことじゃない。(こんな当たり前のこと、言葉にしてしまえば思考では前から分かってたって思うんだけど、感覚としてはわかってなかったというか…)

受けた後も、毎日見るもの感じるものいろんなことが繋がってくる感覚があって、世界が面白くて仕方ない。これからどんな気づきがあるんだろう?と自分の人生が楽しみになった。

ゲシュタルト療法は、文字におこすのがものすごく難しい。。けどなにより、自分の人生の分岐点になる経験となった、気がする。こんな素晴らしい体験をさせてもらったこと、その時間を一緒にしてくれた20名弱の方々に、心からありがとう。

そして明日からは大人の心の学校だー!楽しみ♡

体験記は言葉のプロのあみちが書いてたnoteが素敵だったのよん。読んでみてね。