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5月30日~6月5日一週間日記


●5月30日 水曜どうでしょう講談の直しと稽古


 6月1日の本番に向けて台本のブラッシュアップと稽古を行う日。朝からやる予定の旧作どうでしょう講談の台本を見直すと、大幅な書き換えが必要なことに気づく。焦って書き直す。興行主兼編集者の玉木青に書き直した台本を送付してアドバイスを貰う等して、なんとか本番2日前に台本が出そろった状態になる。
午後からは歩いて稽古、疲れたら喫茶に入って台本の見直し。これをしばらく繰り返して新作講談を本番クオリティに仕上げていく。もっと繊細に作る人も多いんだろうけど、このやり方の方が僕は作品に向かう集中力が増して、描写や演出も良い感じでプラスしていけるのでよい。

●5月31日 武蔵新城ミーティング


 スケジュールや今後の企画のミーティングを行う。玉木青夫妻、横山清正がやってくる。なんだか段々友達から仕事相手に変わって行く感じで、寂しさもある。価値のある人間であり続けなければ。できれば面白く、それでいて経済的な存在感があるような。
途中から場所を変えて武蔵新城盛り上げミーティング。7月にやる僕がバーテンをするバー企画がトントンと拍子よく進んでいく。なんだか無暗に楽しみになってきた。最近人とヘラヘラ話をするというのはバーしかないので、こう、パブロフの犬的に愉快な気持ちにになるのだろう。運営は不安ではあるが、まあ、バタついたらバタついたところを見ていただいて。という感じだ。
解散したのはもう暗くなっていたころか。何度か講談の稽古をして眠る。

●6月1日 水曜どうでしょう講談月例会


 朝、布団の中で一通りその日の演目を口ずさんで起床したらなんだかヘトヘト。釈台を使ってもう何回か稽古をする。ねぐらを出て、渋谷の会場へ近づくものの、迷う。渋谷は地下、道、陸橋があるのでもうわけがわからない。どことどこが繋がっているのかもわからない。都市の不条理を感じる。やっと会場の近くまでたどりつく。いつもの習慣で早めで入り時間まで40分ほどある。会場近くの喫茶でその日のまくらを検討する。まずまずよいまくらを用意できた。しかし会計がアイスコーヒー700円であった。都市の不条理。
会場入りし、皆がやってきて本番準備、この日の来場は70名ほど。盛況。後で聞くと、いつも来てくださる方々が結構誘い合わせてきてくださったそうな。ありがたいことである。
この日の演目は『水曜どうでしょう講談~なんとかインチキ~』『水曜どうでしょう講談~粗大ごみ~』『水曜どうでしょう講談~だるま屋ウィリー事件~』の三席。
盛り上がっていたように思う。いい感じにできたんじゃないだろうか。
終わってから片づけを終わらせて、観に来てくださった方々の宴席に参加をさせていただいた。二軒目まで行って確か午前2時頃だったか。大変楽しい会だった。僕は宴席が苦手だと思っていたようだが、ただただ苦手な宴席が苦手という小泉進次郎状態であったということがわかった。苦手な宴席が多すぎたんだ今迄。
一緒に来てくれたY君が「朝帰りはできない」ということなので、共に宴席を後にしてタクシーに乗る。途中僕は新宿で降りて、行きつけのバーに行くが、満員で入れず、適当なバーで一杯飲んだ後に適当なサウナに入って始発を待つ。

●6月2日 『正義の行方』@渋谷ユーロスペース


 若干の二日酔いを引き受けつつの起床だったが。昼過ぎには正気に戻る。かねてから観たかったドキュメンタリー映画『正義の行方』を観に渋谷へ出かける。素人時代、渋谷らくごで何度も訪れたユーロライブの上の階の映画館。ユーロスペースは一度、テアトロコントという催しで、あれは6年くらい前だろうか。京都の合田団地氏の劇団・努力クラブの客演として参加させてもらったのを憶えている。Aマッソさんとご一緒させていただいたのはこれ一生の思い出である。
袖から観る、Aマッソのお二人の、ティーアップさんの漫才音声が流れてる時間(?)死ぬほど笑った。かっこよすぎた。いつだったかのWでの映像漫才も、またものすごくかっこよかった。いつもかっこいい二人である。なんてことだ。
あの場所に行くのはテアトロコント以来だったかもしれない。
映画はかなり面白かった。飯塚事件という九州福岡で小学生の女児二人が殺害された事件。逮捕されたのは近くに住む久間、という男。いくつか証拠が出てきて久間が犯人ということになり逮捕に至って裁判になるが、そのいくつかの証拠というものがどうも信ぴょう性に乏しく、警察のほうでも久間を犯人として決めつけて捜査に及んだ、という風に取られてもしようがないという操作手法を取っており、一体どうなんだ。と皆が思っているにも関わらず、裁判は進み、久間は死刑を宣告され、証拠の信ぴょう性が怪しいままものすごいスピードで死刑が行われていったという。
それでも弁護士たちは弁護団を作って「証拠の信ぴょう性に疑いがあるから再び裁判をしてほしい」と再審請求を行い、どんどんと証拠の信ぴょう性は薄れていくが、頑として裁判所は再審請求を受け付けず、弁護団の人々は年を取り、遺族も年をとっていく。というドキュメンタリーであった。
やっていないかもしれないのに、死刑になった。ということは恐ろしいことだ。
というか検察が恐ろしい。
裁判というのはやったやっていない、というのはあまり関係なく、やったと言える証拠、やったとは言えない証拠や立証を勘案して裁判官よって罪が下される場所であり、無実と無罪とは意味合いが全然違う、と僕は認識している。
そしてその証拠に信ぴょう性がない、となると、やっているやっていないは別にして、無罪にしろとは言わないが、やはりもう一度審理のやり直しをするということが必要なのではないか。だって、判決は証拠を後ろ盾として行われているわけで、その後ろ盾が変わったら判決も変わってくるはずなのだ。
証拠の信ぴょう性を完全に見抜くことは裁判官、検察ですら難しいだろう。
でも、だからこそ、その信ぴょう性に疑いがあるというのならば再び考えなおさなければならないのではないだろうか。何か、くだらないメンツを気にして再審を受け付けていないようにすら感じられる。まあ、しかしここで再審を認めてしまえば、ある種検察警察の権威を低下させることにつながるので、認めない、という気持ちもわからぬでもないが。
法律とどう向き合っていくか、ということを考える映画だった。
あと、この映画、いろんな記者が出てくるのだが、あの時の報道は勇み足だったのかも、と気に病んでる記者が「死ぬ前になんでも叶える」と神様に言われたら「あの日のこの場所で。僕にあの事件を見せてくれ。と頼むだろう。やったのかやっていないのか」と頼むだろう、と言っていて、僕は「あの事件が起こらないように」とか「あの事件を僕が止めます」とかじゃなくて「真実を知りたい」という記者の姿を観てこのの悩みの深さ、追い詰められ、そして事件の重大さにぞっとしたのだった。
映画が終わってから川崎のねぐらへと戻っていく。渋谷でバーを探したかったが、どうにも気が乗らず、ねぐらへと戻っていく。

●6月3日 シラス配信


 なんだか呆然としていた日だった。玉木青に進めてもらった『夜と霧』という本を読む。自己啓発という触れ込みを玉木はしていたが、どうやら心理学の本のようである。このひ読了。面白かった。感想などは6月10日にアップされる予定。毎月10日は最近読んだ本や観た映画についてのエッセイを書いてnoteにアップしていく。
この日は夜シラスをした。5月の新作講談振り返り配信。10本作っていたそうな。殆ど玉田玉山物語でなんだかがっかり。ワンパターンなのよ。案の定過疎っており寂しい配信。ただ、コメントはずっとあってありがたかった。

●6月4日 人に会う


 高円寺で人に会うので、ねぐらを出てぶらつく。新宿でいくつか買い物をする。妻の誕生日が近いのである。新宿で買い物の後、中野へ向かう。特に用はないのだが、喫茶で作業を行う。中央線の空気。大阪に居る時は「け」って思っていたけれど、案外居心地がいいのだ。割とみんなが作業をしていて、でかい声で喋っているおばばとか、競馬新聞を広げすぎてカウンター三席分つかっているおじじ、とか奇声を上げる白髪の老人(男女の判別はつかず)などはいないのだ。本を読んではタイピングをし、いかにも苦吟、という感じの人なんかにはシンパシーを感じるものだ。
この日はひたすら石丸伸二講談を書いていた。石丸氏が「地方議員を居眠りさせない」というアイデンティティで以て暴走をする講談。筒井康隆のドタバタ、スラップスティックの影響を受けつつ、全くそれに及ばないのが悔しい台本を完成させた。
書き上げたあたりで高円寺に行き、打ち合わせを一件。その後、バーに行く。この前言った人民の敵、という店名のバーだ。外山恒一がケツモチなだけあり、アナキズムを勉強している学生がバーテンをしており、先客はコミューン思想についての発表をさっき終えてきた、という院生であった。よくわからんくはあったんだが、なんとか話を聴いているうちに面白くなってくるものである。非常に楽しい時間であったが、彼らは若い。僕はおじだ。彼らが愉快であったかどうか。

●6月5日 漫才ライブ・漫ドリル


 朝、前日書き上げた石丸市長の講談をシラスで初演。まあ、それなりにできたと思うのだが、どうも配信の具合で音声が小さかったようでウップスである。悔しい。
終わらせてインターネットを見ていると、ガーシーが落語家に転身する、という宣言をしたというニュース。瞬時に講談になる、と計算し、あらすじを立てる。明日にでもできれば、と思っていたがすぐにあらすじはたち、台本も書きあげることができたので思い切って収録してYouTubeにアップする。今のところバズる気配はない。そらそうか。長いし。
 家を出て高円寺へ。高円寺でnoteを書く。毎月5日は講談論を書く、と決めたのだ。この日はガーシーと講談の親和性について書く。
 19時からのお笑いライブへ向かう。高円寺ジュンジョ―。漫ドリル。にぼしいわし目当てであったが、観客は若い女性ばかり。怖い。恐ろしい。臭いと思われているに違いない。きしょいと思われてるに違いない。という負の感情が全身を走るが「いや、そういう気持ちこそが女性差別である。女性なんてものは人をそういう不条理な貶め方をする程度のものである。というような知性しかない、と思っているということではないか」と思い直して感情を止めようとするが、感情はあふれる。全体的にいたたまれない気持ちになっているうちに開演になる。
前にナルゲキで観たセンチネルというコンビと、素敵じゃないかというコンビが滅法面白かった。センチネルは寄席的に言うとフラがすごい。観ていて本当に幸福。漫才が終わってほしくない。素敵じゃないかは演技がすごく上手で、その演技の質感が演目の中で変化しつつも地続きで、最後に一瞬のずれが生まれてそこが涙が出るくらい面白かった。すごい。他の漫才も観てみたい。
終演後、高円寺駅は電車が止まっていたのでまたぞろバー人民の敵へ。電車が動くまで待って四谷三丁目のバー花曇りへ。この店が東京では一番居心地が良い。入った瞬間女王蜂の映像が流れていて、良きことであった。掴みがオッケーである。
関東の豪農の気質の話から、江戸時代にタイプスリップしたらどうやってその世界で地位を占めていくか、という話をし、盆踊りと芸能山城組の話をしているうちに次のお客さんが来て、終電も近くなってきたので店を出る。
夜遅くにねぐらにたどり着いた。こういう時に何も食べずに眠ることができるようになってきたのは成長だ。


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