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消化不良と好奇心


他者の言葉に耳を傾けようとし
話の内容を理解しながら書き留め
自分の思考を動かし
他者の言葉を聴こうとする

その連続性の2日間でを潜り抜けた今
心に残っているのは
消化不良と好奇心というのがしっくりきそうだ。

思考がまだ発散の状態にあるため、二日間を振り返ってまとめるにはあまりに時間が足りなかった。
ただ、明日からまた看護の脳が動いてしまうと今の自分の紡げる言葉がより出てこなくなってしまうのが、惜しい!ので、せめてこの2点だけでも、今の所感をうちこんでみまする。

消化不良


誰かの言葉に耳を傾けながら
それが意味することを理解しようとした、
だけど自分の聴き方は
自分の日頃の関心や持っている枠組みに
無意識のうちにも引き付けて理解していたのであって
相手の環世界でものを見るということをできなかった
あのスピード感で相手の心や言葉の背景や自分との前提の違いに気づくところまでいけないよ!と言い訳してしたくなってしまう自分。
人は結局ききたいようにしか相手の話を聞けないものなのだなあと思った。

不確実性への耐性、中動態、ネガティヴケイパビリティ、相互性、間主観性、ままらないものに巻き込まれる、迷惑をかけあう、今まで自分がケアに関する本で落とし込んできた概念が他者の口から出てきたり自分の持つ概念に結びついたり、やっぱりここにきた人は近しいものに関心を寄せている人が多いのかなと嬉しくなったりもした。でも、途中で相手の話もケアに引き付けて意味付けしてしまう。
もっと相手のメガネをかけて相手の理解の仕方を知ること、相手のモヤモヤ感や涙が出そうなほど詰まった言葉の意味を想像しよう、想像で終わらず確認のコミュニケーションをとってみよう、と思った。

わからないものをわからないまま受け止めるのは不安だという人が周りには多かった。
彼ら彼女らに対して私は、わからないものをわからないまま受け止めることができたのか?わかった気になってしまう自分、それをメタ認知できてない自分。
わからないものを自分なりの理解で仮固定することも良くないのかとか、わからないって何かとか、どこまでわかってて、逆に自分がわからないことは何?
哲学対話で感じたわからないことを考え続けることのじりじり…..もぞもぞ…..しーん….の感情、今日はなかった。
自分の理解にひきつけられるところだけ拾って、あとは受け流しちゃったところもあるのかもしれない。

消化不良という感覚には、他者の話の聴き方が十分ではなかった、理解されないまま放置していること、が含まれていると思う。
ほっぺを膨らませたリスみたいに自分の中に溜め込んだ言葉はまだ残ってる、これからゆっくり味わって、ゆっくり消化して身体に吸収していけたらいいなあ!


 

好奇心


私は他者に関心を広げられるときと、あまり関心を向けられない、その余裕がない時期を繰り返す。新学期や新しいコミュニティに入ると関心が向けられるけれど、だんだんコミュニティ内に関係性ができ自分も心地よい関係性で安定すると、それ以上の関係を求めないし、その関係性が変わることを嫌うようになる。すると、この人は私と仲良くなりたいと思ってないとか、今私と話したいとも思ってないだろうななどと勝手に自分で相手の気持ちを決めつけてしまい、殻を作って閉じこまってしまう。自分の悪い癖だなと思いつつ、このクセは小学生くらいから変わらないから、自分の変えようと思っても変えられない部分だろうとも思っていた。

でも、この二日間は相手が自分に関心を持っているかとか、どんな関係性を望んでいるか、ということにこだわらず、相手の考え方や思っていることを知りたい、その純粋な好奇心を他者に向けることができた。

相手が開かれた態度で私や他の人と向き合ってくれたからこそ、私は普段なら自分に課してしまう過度なブレーキや自己防衛のための殻を脱いで相手に関心を向けていいんだといってくれていたような気がしていた。

自分も他者に開かれた態度でいようと思えたのは、自分の心構えによるものというよりも、みんなの他者に向かう姿勢、関心の向け方、コミュニケーションの姿勢から学んで実践できたことも多かった。

私は思考の中では偉そうで優しそうなことを言っても、それが実際の自分の行動や態度には伴ってないことも多い。パターンや理論に落とし込む抽象思考を愉しむだけではなく、具体的に個別の事象に落とし込んだ時にそれはどんな行動になるのか解をだし、それを実践すること。いろんな人と関われるこの場も実践の機会だ。

「他人と向き合っているようでいて、自分と向き合ってしまう」

ある人が言ったこと言葉がとても心に残っている。

自分が乗り越えられない自己の未熟さや自己理解が伴わないがゆえに、相手と向き合うのに必要な行動や言動ができないこと。まさに、ここ数ヶ月の自分が思案していたことはこのことなのかもしれない。
自分の未熟さと向き合うことは怖いが、未熟さを乗り越えた先に他者理解があること、何よりここで感じた他者への好奇心が自分を後押ししてくれるのではないか…。
(ひいては、自分の未熟さと真正面から向き合わなくても、他者と向き合うということに注意や目的を置いて行動することで、いつのまにか自分の未熟さを乗り越えることもできるのでは?など…,やや論理性は欠けているが)希望的観測を抱いた。笑


実践すること、理論化して体系化された理解をすぐに試みないこと、個別の事象、今ここに集中すること、(目の前の相手一人一人の話すことに注意をむける、わからないことを怖気付かずわからないと聴いて他者性の理解に歩み寄る、相手の発言の意図や気遣いに気づく、などなど)
この場に限らず自分が大切にするべき、乗り越えるべき人に対する態度というものが、すこし可視化されたようにも思う。



他にもまだ振りかえりきれてない
この2日間のことも
ゆっくり 紐解いていこう🧵

2024/1/14


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