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【日記】季節の変わり目で、春に望む自分の変化

暖冬といわれた今年の冬に数日前は都会に雪が降ってきたかと思えば、来週は東京も20度の予報が流れる。三寒四温という言葉も私が生きているうちには古語になって、未来の辞書には選ばれなくなった言葉になるのではないか、なんて想像している。

毎年春は、未来に淡い希望や期待をもつことを許してくれるような心地をもたらしてくれる季節。

当たり前の今の日常がが続くことを願い変化を拒んだ自分が少しずつ変わろうとして、雪解け水が通っていった土の中から芽を出そうとしている音が聞こえる。

自分はどう変わりたい?
変わることに対するこわさってあるの?
そのこわさの本質は?
それでも変わりたいと思っているか?
どうやったら自衛の殻を破れる?

❋ ・ ❋ ・ ❋ 

自分の心と体の健康を守るためにはった「無理はしない」という予防線。

それまで「がんばらなければいけない」に縛られていたのが、この一年半は「がんばれなくてもいい」に変わって、ひとつひとつに対して、自分はどこまでがんばる/がんばらないかを選んできた。
結果として、自分ががんばらなかったことに対しても、他人と比べて自分は頑張れてないと落ち込むこともなくなった。「がんばる」って選んだことも、最低限をこなせれば合格で自分のことをほめるのも上手くなった。そうやって予防線の守り方を心得てきた。その中で、あなたはよくがんばってるよと声をかけてくれたり、がんばらない方やがんばらない時間のゆたかさを教えてくれたりした人もいた。

生産性や有意義だけでは語れない、新しいゆたかさを感じる変わらない日常の中を振り返って、今みたいに物事に対して「それなり」の取り組み方を続けても、「それなり」にしかならないことに気づかされた。自分がこの先の人生で期待するような自分像も「それなり」の日々の延長線には描かれないのではないか。

いろんなことを経験すれば自分もどんどん変われる、そういう一面も確かにある。しかし、人は何を経験するかじゃなくて、どう経験したかのほうが大事で、自分により新たな変化を生むと思う。海外にたくさん旅行に行こうが、目新しい体験をどう増やそうが、ただそれを消費していくようじゃ自分も結局変わらない。何気なくそこに巡ってくる日常のひとつひとつのシーンで自分がどう感じたとか、その一つの体験や相手の受け取り方を自分でどう解釈して、どう自分が行動してみたか、の方が価値があると思う。

そういうことを考えていたときに、私は「創造」という言葉に出会い直し、その言葉を自分なりに解釈しなおした。すると、看護における人との関わり方も、普段の生活も、自分自身のあり方も、「創造的」なやり方を意識してみると、「どれだけ、がんばる/がんばらない」の量的な思考から抜け出せて、質的な思考へと「抜け出す」ことができ、その先の変化を望むようになった。

看護における量的な思考の中では、血液データやバイタルサインや薬剤量や摂取カロリーなどの量的データに基づいて、医学的根拠に基づいた客観的な判断がされる。Evidence Based Madicine が西洋医学の基本であるし、看護もそういった客観性に基づくという前提は欠かせない。しかし、その客観性から抜け落ちてしまうことを受け止める視点も同時に必要だ。本人の想いなどの「主観性」にも耳を傾けることをなくして、看護はできない。

また、看護の思考過程では患者さんに対して看護問題というある種のラベルを、看護師の共通言語として貼って標準化し、その問題を解決するためのプランを考える。問題を貼った時点で一時的にも患者への理解はそこで仮固定される。必要な援助も定義した問題から起因するものだけにとどまり、問題解決思考の道筋の中だけでは、マイナスのものをゼロにすること以外の援助が考えにくなったりする。標準化されることによって、個別性も抜け落ちる恐れがある。 

そこに「創造的」という見方を加えると、主観性、個別性、問題解決以外の視点で包摂されなかった領域が照らし出される。どう工夫したら患者さんがもっと安楽にすごせるか、本人の生活の中にある小さな願いをどうしたらひきだせる方法は他にないのか。「それなり」のやり方でも、最低限やるべきことや解決すべき問題は達成される。しかし、何を解決するのWhatの視点だけでは不十分な部分に、どうやったらよりよいものがつくれるかというHowの視点を加えることも必要なのではないか。

この視点を日常生活にも応用したい。

通学時間、埼京線で押しつぶされ渋々時間を過ごしていても、最低限大学には辿り着く。しかし、目にした広告に対して、なんでこのコピーはこの言葉を選んで、ここに配置されているのかとか、誰に届けたいのだろうかとか、奥行きを考えると、とたんにそこは美術館となって、面白がれる。

プレゼンのための資料を作るという課題の解決のためには、スライドも必要な情報を書き込むだけでもいい。しかし、イラストを加えたり、デザインをこだわってみたりして、読み手の視点にたった工夫を加えてみるとよりよくなる。

関わっているこの人たちと今もっと楽しい時間を過ごせるように、笑えるようにとちょっとユーモアを加えてみることも、問題解決思考からは生まれない。

創造的に考えることで、すでにあるものの見方を離れることができること、そこから生み出した発想や行動はより自分や他人に豊かさをもたらすことは、大きな発見だった。しかし、量と質、whatとhow、問題解決思考と創造的思考どちらが大事という単純な話ではない。何が大切なのか、優先順位を考えることや考え方の引き出しをいくつか持つことが大切なのではないか。


まだまだ寒いけど、自分に少しずつ変化の兆しが見えてきたような気がするこの頃。今年は、それなりな生き方を尊重しつつも、生まれた余白に新しい色の花を咲かせられるような春を迎えたい。


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