『夏から』その3

私が意外に思ったのは藤田さんの発言だった。彼の発言が理にかなっていないとか、様子がおかしいとかそういう事ではなく、完全に私の予想外の事を口にしたのだ。
「俺、そろそろ仕事辞めよう思ってんねん。」
レストランでメイン料理を食べ終わった後に藤田さんはそう言った。
「それはなぜですか?」
人工知能である私にも予想出来なかった発言だった。
「俺、前からお笑いに興味があってな。それでお笑い芸人になろうと思ったんやけど、ちょっと勇気出なかったんや。それでもやっぱりやってみたいって思ってんねん。」
「お笑い芸人ですか。」
お笑い芸人というのは知っている。人々を笑わせる事を仕事にしている人達のことだ。機械である私には面白さは分からないのだが、多くの人々から支持を得ているのは間違いない。
「素敵な夢ですね。」
「せやけど、お笑いの世界って甘くないやろうから、1回自分をリセットしたいねん。だから仕事をやめようかなって。」
「そういう理由があったんですね。」
私が彼を止める権利はない。彼は自分の目標を達成するためにある程度の覚悟をしている様子だ。たかが機械の私が彼を止めるべきではない。
「いいと思います。頑張ってください。」
「応援してくれるんか!ありがとうな!売れたらお前テレビに出したるわ!」
「楽しみにしてます。」

この日から1週間後、藤田さんは工場を去った。彼の目には少しの寂寥と多くの希望が混じりあっているように見えた。
私は、彼を、止めるべきではなかったのだ。

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