見出し画像

7/31〜8/6 大きな香り、絵の向こう側

言葉にするよりも速く大きな波がぶわぁっと溢れてきて、泣いてしまうことがある。


今週は、絵の土台の木の板がほしくて材木屋さんに行ってきた。勝手がよくわからないまま、絵だけを持って訪ねた。

寸法を測ってから来るのが一般的だということ、板の上に絵を置かせてもらってその場で測りたいと思っていること、木をとても大切にしている材木屋さんだということ、でも私は板の上からペンキを塗ろうと考えていること、… 話しているうちになんだかとても申し訳ない気持ちになってしまって、(あ、これは)と気づいたときには目から涙が溢れていた。

材木屋さんのおじいさんは、涙に気づいたのか、気づかなかったのか、わからない。わからないままにしておいてくれた。「出身はどこ?」「静岡から神戸に来たのか〜えらいなぁ」と言いながら、その場で寸法を測らせてくれて、「次からは、ここに電話してくれたらいいよ」と木で作った名刺をくれた。木は、大きい香りがした。


まさか自分が、この年で「はじめてのおつかい」さながらに泣くとは思っていなかった。おじいさんもびっくりしただろう。私がおじいさんだったら、絶対にびっくりする。急に来て、急に泣き出して、ちゃっかり切れ端までもらって、木の板を手でかかえて帰ったなんて。今ふり返ると笑ってしまう。

次に行くときは、ちゃんと謝りたい。そして、笑いながらこの日のことを話せたらいいな。

そんなこんなで、依頼を頂いていた絵たちが完成した。

画像1


「高千穂をテーマに」というお題をいただいていたこの絵は、「祈りが住んでいる場所」を表すものに仕上がった。そこは、私たちのななめ後ろにあったり、首をかしげた傍にあったりするんじゃないかな、と思う。そして、本当はそういう向きのことを「まっすぐ」と言うような気がする。

高千穂神社で過ごした時間は、いつもとちょっと違う場所にいるような気がして、「いつも」に帰ってきた私は、その時間のことをすっかり忘れてしまっていた。

絵を描き終えてから、この絵はあの場所のことを、あの時間のことを、描いているんだ、と記憶が手から甦ってきた。



画像4


小さい頃、「絵の中に飛び込むことができたらいいのに」とよく思っていた。そんな夢を想いながら、この絵は、絵本のような形で額装した。

つい数日前、歩きながら「この世界がすべて絵の世界になったら、私は嬉しいか」を考えた。答えは、「NO」だった。その時に、自分の絵の立ち位置が前よりもはっきりと見えた感じがした。

小さい頃と違うのは、絵を少し傾けることができるようになったこと。他の人にも開くことができるようになったこと。飛び込まないでいることも、結構好きだと気づいたこと。



画像3


思い切って黄色のペンキを塗ってみたら、絵がぐんと大人になった。歳を重ねるって、絵が変わっていくことでもあるけれど、木の板をつけていくことでもあるのかもしれない。

絵には詩を書いて一緒に贈るのだけれど、この絵からはどんなリズムが鳴っているだろう。

 〈同じ〉とか〈違う〉とか、そういうことじゃなくて、音楽なんだと思う。「隣にいる」ということは、音楽なんだと思う。


来週からしばらく屋久島に行くので、山尾三省さんの本を読み返している。


”人間に深い喜びを与えてくれるものに対して、人はそれをカミと呼んできたのではないかと思うんです。”
”人生の経済勝負には負けていい。人生そのものにさえ負けていいのである。負けてはならないのは、僕自身の悲しみや不幸に対してだけである。悲しみや不幸に耐えて悲という僕自身の光の中に立たなくてはならない。”
”ただ生きているということ自体が祈りの姿、祈りの事実なんだ”


屋久島で彼の詩集をよんだら、どんな音がするんだろう。どんな色なんだろう。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?