セキオ・イシカワの時代
ケンヤは覚えているかな。
高一の夏休みの最後に部活の仲間でキャンプに行ったことを。
夏休みもあと二三日で終わるというタイミングで、弓道部のショウメイから電話があった。部活の仲間でキャンプへ行こうと。
このタイミングでキャンプとかおかしくない?と思ったけど、別に断わる理由もないし、夏休みの終わりに遊びに行ってはいけないという決まりもない。
夏休みの部活は締め括りの地獄イベント「道場千本雑巾がけ」と夏合宿で、とっくに終わっていた。
夏合宿は全部活でないけど運動部合同でやり、沿岸部の豊橋市から山間部の北設楽郡東栄町へみんなで飯田線に乗って行く。東栄町の駅からはバスに乗って総合スポーツ施設のようなところへ行く。
遠足気分は最初だけ。人里離れた隔離された施設で地獄の合宿で脱走もできない。というか精根尽き果てていて脱走する気力も体力も残っていない。
とはいっても弓道部の練習はたかが知れてるから、まだ遊ぶ元気があり、夜は恒例の「おまえは女子の先輩で誰が好きなんだ」尋問が先輩からあったり-(極めてどうでもいいが)いつまでもやかましく起きている。
そうすると、糞地獄特訓でマジ寝したい同室の陸上部の連中が切れる。
謝って静まる、ところがまたコソコソしだし、そのうち爆笑トークになり、また陸上部が切れる。この繰り返し。
陸上部の連中がアリスの「遠くで汽笛を聞きながら」を聞いていたのが印象的だった。今でもその曲を聴くと高一の夏合宿を思い出す。
ちなみに高二の夏合宿はケンヤが大事件を起こして、でもそれは本人の名誉のためにも内容は自粛する。自分たちが主役の高二の夏合宿は、高一の時に比べるとちょっと羽目を外しすぎだった。
ところで極めてどうでもよいとしたけど、女子の先輩は、控え目美女さん、カワイ子タイプ、「愛と誠」系ツッパリ美人さんまで、いま思い出してもなかなかのハイレベルだったと思う。だって未だに覚えている。
夏合宿が終わり飯田線の東栄町へ向かうバスでは、再会した他の部活の知り合いと無事を祝うような一体感があった。豊橋へ帰る飯田線の車内では、窓から顔を出して夕暮れに向かう風景を何人かで見ていた。
「暑かったけど短かったよね、夏」
桑田佳祐監督映画「稲村ジェーン」での、ひと夏を見送る清水美砂のセリフのシーンのような心象風景だったように思う。
感受性豊かな16歳の夏合宿の体験が「吊り橋理論」のように、肌寄せ合うような連帯感が生まれ、車窓の景色もフィルターがかかっていたのだろう。
そして僕は、バスの中からハンド部女子のちょいヤン女子にちょっかい出されていた。その子には高二になって同じクラスになってからも、ずっと何かとちょっかいかけられていた。ちなみに聖子ちゃんカットだった。
高一の夏休みは他にもいろんな事があった。
夏休みの始めには弓道部のひとりに誘われて社会科研修旅行へ行った。京都奈良のバスツアーで社会科の教師が引率していく。
僕自身は誘われただけで、全くのノープランの思考停止状態で行ったのだが、これがまたとんでもない珍道中だった。
京都の宿に着くまでは普通だったのだけど、晩飯の時間になると飲めや吸えやの大宴会。しかも教師黙認。ラグビー部の先輩が大挙して来ていて、おかしいと思ったんだ。いかついちょいヤン集団が社会科研修だなんて。宴会しにきていたんだ。
メンバーはそのラグビー部男子が多数に、弓道部の先輩男女が少しに、確か一年は僕と友人だけだったような。バス一台分だから教師数人の他にもいたのかもしれない。
そして夜の闇に弓道部先輩カップルが消えていくのを、ラグビー部の先輩達は己れの寂しい身分を呪いながら見送ったのであった。
ここで知り合った(飲まされた)ラグビー部の先輩は何かと目をかけてくれて、秋の旧制中学式体育祭でも世話になった。これはある意味実社会の基礎で、そんな意味でも社会科研修旅行だった。
ちなみに秋の旧制中学式体育祭では夜のストーム(大將が太鼓をどんどん叩いて上半身裸の男子ががなり唄う石器時代のイベント)があり、なんだっけ、クラスの女子が弁当?オニギリ?作ってきて、鉢巻を?忘れたけど、とにかく好むと好まざるに関わらずペアを作るのがマストになる、チビでもやしの僕にはかなり泣きたくなるイベントだった。ペアを組んでくれた優しい女子には感謝だ。
ちなみにこんな時代錯誤甚だしいイベントは、いまだにやっているらしい。
さすがに今は弁当やオニギリでなく、カルピスを渡すという。
カルピスとはまた謎なのだが。
ある夏の暑い日に遠くの海にやっとの思いでたどり着いた時の景色もよく憶えてていて、今でもそこを通ると懐かしい気分になる。
そんなわけで、とにかく愛知県民の森へ行くことになり、僕が段取りすることになった。電話してみると、ボーイスカウト式というか規律がきっちりしている。時間作法、食器の借り方から扱いや毛布の畳み方まで。
そして当日みんなでまた飯田線に乗って最寄りの駅まで行きそこからは徒歩だ。死ぬほど歩いたような記憶がある。いやそうでもなかったかな。県民の森つまりキャンプ地から買い出しに行った時かもしれない。くだらない事を喋りながらひたすら歩いた。
「おまえ地元の中学生みたいだな!」
なんてケンヤに言われて、そのイベント中 は「ジモチュー」呼ばわりされていた。
何を食べたのか、毛布はキチンとたためたのか、さっぱり憶えていない。氷のような冷たい川で泳いだことは覚えている。そして帰りの駅で飯田線を待つ果てしない時間。
もう新学期が始まる。祭りは終わった。
モラトリアム期間のようなキャンプだった。
人種の坩堝のような公立中学から、比較的均質な公立高校に進学した年の、まだまだ自由の丘を駆け巡っていたころだった。
セキオ・イシカワが現れたのもその年だった。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?