ウルクができるまでの話

古代メソポタミアにおいて、都市は丘の上にある。

元から丘があった訳ではない。
当時のあの辺りは二本の大河に挟まれた巨大な平地で、
むしろ湿地帯といってもいいような、
どこまでも平らな土地である。

ウルクはいわゆる「肥沃な三日月地帯」と言われる
冬場にはそこそこの雨量があって、
大きな川があるから水を引くのに困らない、
農業に適した土地の東の端っこにある。
農業は人手がたくさん必要なので、
みんなで暮らす分にはちょうどよかった。
少なくとも前1万年かもっと昔、
もしかしたら前2万年くらい前からここには人が住んでいて、
彼らのことはよくわかっていない。
ただ旧石器時代からここには人がいて、
その後だいたい前4000〜3500年前にかけて、
シュメールの人々や他の人々、
だいたいセム系の民族の人たちがやってきて、
この土地の人と平和的/非平和的な接触を繰り返し、
定住して発展していった。
そういうことだけがわかっている。

農業に適した土地だから、鉱物資源は何もない。
木も建築に適した硬くてまっすぐなものは育たない。
土と葦とふわふわのナツメヤシだけがたくさんある土地で、
だから人々は土で家を建てた。
粘土とわらクズや葦の葉っぱなんかを混ぜて、
型でスポンと抜いて乾かして、
一週間もするとものすごく硬いレンガができる。
これを積み上げてお家を作る。

土でできた家だから、冬の雨季が過ぎたら塗り直さねばならない。
そうでないと、ふやけて崩れてしまう。
人が住まなくなった家は、塗り直しがされないので、
あとは雨風で崩れて土に戻っていくばかりである。
そうして、土だけになってしまった所に、誰かがまた
泥と藁で作った新しい家を建てる。

現在でも同じような建てられ方をすることが多い、この方法で
何千年も何万年もこの地方の人々は家を作ってきた。
そうすると、新しく建った家の土台は古い家の残骸の上にできるので、
ちょっとずつ土地自体の高さが高くなっていく。

これをアラビア語で「テル(丘)」と呼
必然的に、ウルクの街もこういう丘のてっぺんにあった。
わざわざ丘を作ろうとした訳でも、そこに丘があったのでもなく、
人が住んでいたら丘になってしまうのである。
丘を上から削っていって、下の方に行けば行くほど
古い時代の名残が出てくるのはそういう訳だ。

テル2

これはジェラシュだったかイェリコの方だから
ちょっと違うんだけどまあこうなってる。

テル

丘をほじくり返してローマ時代の遺跡を探してるところ。

閑話休題。
ウルクはとても大きな街である。
北のキシュやニップル、南のエリドゥといった大きな街のうちの一つで、
あちこちに点在していた他の小さい集落が60人とか、せいぜい300人とか、
その程度しか人いなかった時代に、人口3万〜8万人の大都市を作っている。
そうすると国としての体裁を整える必要が出てきて、
だいたい前3500年くらいには神殿や王宮の跡地に大きな石の基礎が
あったことが発掘でわかっている。石をよそから運んでくるのだ。

農業がうまくいっている地域ではどこもそうなるように、
ウルクも一部の特権階級の人々が、
大量の農民を従えることで成立していた。
何故農業がうまくいったかといえば、
まず土地がとても豊かで、平らで、どこまでも耕せること、
それから大きな川があって、灌漑をして水を引くのが簡単で、
さらにこの頃地球は割と暖かくて雨も多く、
結構堅実に収穫量を増やすことができたこと。

それから忘れてはいけない、もう一つ重要なことがある。
パン小麦の誕生だ。

この土地の農業はだいたい前1万年くらいから始まっていて、
それはヒトツブコムギという小麦である。
ヒトツブコムギは小麦の原種のうちの一つで、
穂はできるのだけど、たくさんのモミのほとんどは空っぽ、
ちゃんと実があるモミは本当に1つぶくらいしかない。
だからあまり収穫量が多くない。
それから病気に弱い。いっぺんで枯れてしまう。
そこで病気に強いクサビコムギや、
穂の中にたくさんの実ができるけれど
穂が熟れたらバラバラになってしまって収穫がしにくい
タルホコムギ、フタツブコムギといった種と掛け合わせて、
約前5000年頃。
1つの穂にたくさんの実が入り、
病気や寒さに強く、
熟れても穂がバラバラにならなくて収穫が簡単、
籾殻が薄くて脱穀がらくちん、という夢の全く新しい品種を作り出した。
それがパン小麦、私たちが今食べている小麦の直接のご先祖様だ。

これがもうすごい改革だった。
養える人数が一気に増えて、人口が密集し、
村は町に代わり、ハラフという人々が、いわばシュメール時代の前の
文明の最初の最初のともしびみたいなものを作った。
人口数百人から数千人くらいのちょっと大きなところがいくつかできた。

注意してもらいたいのは、この頃のメソポタミアでは
いきなり異民族がやってきて、バーンと征服してドーンと街を作った、
というわけではないことだ。
人が集まったり増えるにしたがって文明は自然発生的に出来上がって、
もちろん小競り合いもあったけれども、まあおおむね平和だった。
農業主体の地域が繁栄するために、平和は不可欠な要素である。
何故かといえば、
戦争で畑が踏み荒らされたら穀物がみんなダメになっちゃって、
人はたくさん死ぬしものすごく貧乏になるからだ。
街が潰れちゃったらもうそこはあと貧乏になるしかなく、
戦争によってお金と人が集まって
一瞬それまでの文化の結晶みたいなものはできるけれども、
長期的にみれば、特に負けた国は本当に衰退してしまうし、
勝った国も賠償金だけでは戦争にかかった費用を賄うのは大変だ。
これは多分現代も同じであろう。

話を戻すと、ハラフという人々の文化がのちのウルクにとても大きな影響を与えている。集団での計画的な治水/灌漑事業、街の中心にある神殿、
驢馬がひく荷馬車や陶器の器を作るためのろくろなど、
工業的、農業的に重要ないくつかの基本的なものはこの時代に始まった。

それから前4500〜4000年頃にシュメールの人たちがやってきて、
真四角に作ったジッグラト(聖塔)の原型になる神殿や、
比較的大きな宮殿の元になる指導者の家などを作り始めた。

この頃をウバイド期といって、神話によると最初にできた街の名前は
エリドゥといったそうだ。神様が人々を獣や自然災害や飢えから守るために
用意してくれたのだと、人々はそう語り継いでいた。
ウバイド期とハラフ期の境目はちょっとはっきりしないのだけれど、
ハラフの人々が名付けた町の名前をシュメルの人々も使っていたようで、
この辺りからシュメルの大繁栄が始まり、ウルクができたのもこの時期だ。

この頃の世界人口については予想しかできないので
研究者によってばらつきはあるのだけれど、
だいたい前5000〜3000年頃には世界中に500万人〜1400万人しか
人間は住んでいなかった。2015年のニューヨークの人口が858万人、
東京の人口が927万人くらいなので、西はアイスランドから東は日本、
北はロシア、アラスカから南はオセアニア地域に至るまでの人間が
すっぽり東京都に入ってしまうくらいということになる。
そうすると勢い人間が固まってもたかが知れていて、
人口1万人以上の都市(またはその周辺)に住んでいた人たちなんか
全体の5%もいなかったろう。

そんな中、前3500〜2500年ごろ。
メソポタミアに大きな大きな蕾が膨らんで、まさに花ひらく。
メソポタミア地域周辺の人口の9割が1万人以上の都市周辺で生活する、
凄まじい国力を生産力を持った時代がやってくる。

最大の都市の人口は5〜8万人。
9.5kmの城壁に囲まれ、900の塔をもち、
7層に積まれた90mの聖塔と神殿が眼下を睥睨する、巨大都市。

その都市の名は、ウルク。
王の名をギルガメシュという。

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