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短篇「それは、アダンの風」小坂菜緒




貴方が教えてくれた音楽で
「ねぇ、君ならどうやって海に行く?」
これからを探しに行く。

唖然とする。


今の日付、6月24日のページを開いたまま今日起きた些細な出来事を記していく僕は、何も不明な女性に話しかけられた。視線は屋上の端、柵もなく無防備な心の拠り所に向かう。

「……そこ、危ないですよ。柵もない屋上のそんな所で佇んでしまっては、落ちしまいます」

「大丈夫、私空飛べるから」

厚底ローファーを鳴らして愉快に佇む彼女は、セーラー服の影を踏まないように、その身をゆっくりと持ち上げる。まだ誰よりも強い太陽の下で、彼女は誰よりも微笑んでいるようだ。



この学校は、この時期になると自我を失うようにだらだらと深呼吸をする。もう少しで夏休みという、一世一代を心待ちにしている学生たちで何処もかしこも煩い。無邪気に駄々捏ねる子供のように、純朴に煩い人たちが集まる場所としか。


「私は空飛べるから、何処でも安全なんだ」

「……いや、そういう、俗的な問題ではなくて、もっと根本的な不安があると思うんですが」

僕はこの焼き付ける屋上の隅で肌身離さず持ち歩いている手帳を雑踏の鞄に仕舞い、彼女の戯言を聞く為に眩しい景色を薄目で見る。

「やっぱり今日も暑いね。流石6月って感じ」

「……流石というか、当たり前って感じですかね」

燦々と眩しい太陽の下、彼女はゆっくり歩く。
「君は屁理屈が好きね、見た目通りに一から百まで。どうせ夢数ある娯楽なんて自分の細胞の一部にもなりゃしないって感じの、退屈な顔してる」

なんて億劫な偏見なんだ初対面で失礼だろうが、と言っても良かったんだが火に油を注ぐ無駄な事は無いだろうと、少し面倒になって別の言葉を捏ねくり回す。





「そうですか…………」

「ねぇ、最初の質問にはまだ答えてないよ。君ならどうやって海へ行くの?」

「………簡単ですよ、通学路を伝って駅の方面まで歩けばいい。そうすれば駅の背景は見渡す限り海の彼方です」

「君ってのは、相変わらず、いや、相も変わらず屁理屈で無難だな」


海と山、川と森林、自然の言葉を夢袋に詰め込んだような喧騒を、無謀にそのまま持っているこの町では、海へ行くなんて10分休みにトイレに行くと同じぐらいの軽率な具合で。

目に余る自然を前にして僕は飽きた景色に物申しながら、彼女に向かってまた屁理屈を述べる。既にふやけた意見は彼女のような水面に浸けても対して浸透しない。

「君には自分の世界っていうテーマがないの?そういうありきたりで無難な事をわざわざ聞いてるんじゃなくて」





「君という人間ならどうやって海に行く?」



耳障りが悪い。

「君、原付持ってるでしょ?」

彼女は知っている。親が買ってくれた中古の原付、バイクと名乗らせたいぐらい気に入ったフォルムの小さい乗り物。拘束された時間以外は、基本的には乗って気晴らしに動かしていることを。

日常会話以外の折いった交友関係のない僕にはこの事実を知ってる人はこの学校内では誰もいなかった。

「………それを先生に報告するんですか?校則破ってるって、僕みたいな、海月みたいな生徒が原付を愛用してるって」

「ううん、そんな事しないよ。私自身この校則はこの町に合ってないと思ってるし。だって不便じゃん、学校は山の中にあるのに、利便性の高い足を使っちゃダメなんてさ」

「……それは同意見ですね」
砕けた僕の言葉を切る夏手前の風、いつの間にか隣に来ていた彼女は踵を揺らしながら、熱降る太陽の下で涼しい顔をする。

自分がお嬢様だと自負しているような顔で僕に向かって放つ。それには嫌悪感ではなく、自慢げな憎たらしさだけが、表層で感じる。





「私海に入った事ないのよ」
「嘘ですね、そんな人間はいません」
「残念、ここにいます。君は大馬鹿者です」

夏服は心地悪い。どうしても手首の晒された状態でいるのが、是が非でも気持ち悪い。とはいえ、リストカットの痕があるとか、見せられない傷があるとか、そんな大層な事情ではない。

ただ単に、気持ち悪いんだ。

「君も夏でもパーカー羽織る種族なんだね、それは一緒だな」

「多分なんとなく、羽織りたい気持ちが一緒なだけだと思いますよ。流石に他人の心の中までは断言出来ないけど」

けろっとした天気、今日は特に風が吹く。敢えて整えず潰れた髪が彼女のすらっと長い髪と同時に靡く。雲も悠々自適に流れている。

雲の影で森林も顔を隠す。きめ細かい立派な町を覆い隠す雲は、所々6月の学生みたいにだらけている。



「ねぇ、ニケツってしたことある?」
「ダメですよ、そんな邪な考えは」
「私興味あるのよね、多分気持ちいいと思う」
「そりゃ運転せずに気持ちよく靡けるんだ、誰よりも心地いいに決まってますよ」
「それで海に行きたい」
「勝手に一人で行けばいいじゃないですか。僕にはてんで関係ない」
「関係あるから大馬鹿者君に言ってるんでしょ、ちょっとは私の気持ちを配慮しなさいよ」
「もう少し言い方を直したら考慮しますよ」



羽織っているパーカーの下は、お互い汗一つかいていない。森林に脅かされた雲の隙間風たちが包んでくれているおかげで、原付に乗っている時みたいな颯爽とした気分でいられている。

僕はまた鞄から手帳を取り出した。いつもはこの屋上に一人だけの時間でしか開かないものなのに、今は彼女が隣にいても何も気にしなかった。

今日あったこの一連の幕を、記そうと筆を取り出す。この一連の、意味のない会話の概要だけを、記してみる。

「ニケツしてみたかったな」
「何でその夢に感化されたんですか?」
「この前見たアニメ、今のこの町にも少し似ていてね」
「あぁ、なんか賛否があったあれですね」
「知ってる?」
「概要だけ、いつも詳細までは気にしません」
「君はいつもそんな感じなんだね」


彼女がウォークマンを取り出した。
何重にも絡まったイヤフォンを解きながら、過去時代の遺産のような出立ちの機械の電源を入れる。捻れ死んだ身体を起き上がらせて、僕には向かって片耳を渡す。

「これ、片耳」
「……聴けってことですか?」

「そう………」




凪となった瞬間に流れる空虚なサウンドと誰かを乞うような声。寂しさの中に愛があるみたいに、テレビでは聴けないような、学校では聴けないような音楽が流れた。

「これって………」
「シッ………音楽は無音の中で生きるの」



そのミニアルバムから連なる34分のひととき。
普段毛嫌う森林の騒めきが全く鳴らない。
誰よりも蠢かしい風たちの鼓膜を揺らす不快感も太陽の自己満足な熱も感じない。

乾き忘れた頬は、すらっと残す。焦がれた時間に僕は手帳を手放していた。記録よりも記憶に浸透させる時間を、今は誰よりも優先していた。

瞼も落ちて、各神経の細かい躍動も閉じている。片耳だけでは満足に楽しめないような、意地悪な彼女の思惑そのままに僕は踊ってしまった。

たった34分間の短い旅だったが、映画の余韻に似た、どこから吹き抜ける風に後押しされるような心地があった。映画のサウンドトラックになりそうな美しい喧騒に、僕は慣れてしまった。




「………聴き込んじゃったね」
「そうですね、誰よりも」
「ふふっ、それは良かった」

「これあげる」
僕に渡した片耳を彼女の耳にあった片耳と一緒に束ねて、そのままウォークマンごとを僕に渡す。

「もう要らないんだ。君にあげるよ」
「………いやっそんな、急に貰っても」
「因みに結構壊れていて、もう充電も出来ないぐらいのオンボロだよ」
「なら尚更要らないですよ」



「多分君には必要だから。私と一緒にこの音楽を聴いて泣いてくれた君なら、この先必要になるから」

雑踏の鞄の中に、また雑に仕舞った。

見渡すと揺蕩う雲は消えていた。
彼女は立ち上がった。恐らく雰囲気だけでわかる華奢な折れそうな体をまじまじと見た事はなかったが、太陽のシルエットでその姿は確認出来た。

そこにいないような哀れな存在の彼女は太陽を背にしていても微笑んでいるのが、僕には分かった。

「セーラー服は良いね。学生という最も多感な時期を分かりやすく通して教えてくれる」
「それは大人びた自分には寧ろ若過ぎるって意味ですか?」
「君はそういう皮肉も、この別れ際に言えるんだね。相変わらず、屁理屈な人間だ」



「ならその屁理屈人間に別れ際自身の大切な壊れかけウォークマンを渡した事を、恐らく後悔しますよ?」

「残念ながら私にそんな想いは、もうないんだな」





「君には十分伝え終わったから」



『……おーい、帰るよ!!!』
明らかに誰かを呼ぶ声が聞こえる。生温い水の入ったペットボトルを探すような、献身的な声が心臓にまで響く。何か心赦せない価値に怯えながら、僕は甚い感情を忘れて目を逸らす。

無意味に厭き果つ、その刹那に囁かれる。





「有難うね」






『3年2組の小坂菜緒さんの行方が分からなくなりました。』


これは、何処となく搦み疲れる薫風で伝えられたような、嫌な咀嚼のされ方だった。教室で伝えられた”その名前”の字面雰囲気では的を得た確信を持つことは出来なかったが、恐らくそこはかなく慈しみ深い感情漂う彼女のことだろうと、柄にもなく直感で思った。




7月21日のページを開きながらただ単純に、そう思った。


今屋上で伝わる、疎な長さの髪の隙間を抜け通るような夏季休日直前の薫風は、今の綴られそうな想いを綯交ぜる。

前髪が邪魔だ。人生を通せんぼする前髪の微弱な揺れで意思表示するこの前髪が昔から好きじゃない。好きじゃないのに適当な長さなのは、旅した証のようなものだろう。


僕は瞳を閉じてその前髪を消す。


なんだか、この感傷に浸る風だ。俗的な意味合いの含んだ、青春小説のような、誰もが羨んだ青い春の一端を覗いているような、煩い風だ。





「ねぇあんた、あの時菜緒と何話してたの?」
不乱に無心でいる僕は覚ます。

無用な惹起を目的に、何か黄昏ていた僕へと報ずる。一端の会話の中身を一旦深く考えるても、何も憶い出せない。

あの時彼女を呼び、一緒に帰ろうとした、また別の恐々しい女性が目の前にいる。



「私のことは誰だか分からなくても、私の言いたいことはわかるでしょ?」

「……皆目見当もつかないです」

僕の臆した表情は生まれつきなんだろう。こういう時、こういう場面で丸みのない、刺々しい表情になるのはいつになく初めてに押し殺される瞬間なんだろう。

「ねえ、教えてよ。なんで菜緒はあんたとあそこで話していたの?」





「……ウォークマンを貰ったんです」


あの日、日記にはなんで書いたのか。

多分、あの瞬間の、あの出来事のことはなにも書けていないだろう。







あの時、あの人と音楽を聴きながら浴びた、二人で並んで浴びた、僕らが血眼になって涸れながら浴びた、

映画の余韻のような風を求めた。


気になっていた雑踏の鞄の中を覗くと、あの人から渡されたウォークマンがあった。

無機物なのに呼吸しているみたいに、僕に教えてくれそうなウォークマンだけをその身に。


「僕はどうやって海に行くんだろうな」
想い出す。


もう、感化されていた。点と点が線で大きく結ばれる瞬間を淡いで、僕はようやく鬩ぎ合う。


僕は帰路に着き、禁止されてる原付に乗った。
貰ったウォークマンをまたポケットの中に入れて、この夏降りた空の下で、僕は走る。

ただ、直向きに、愚直に。




「僕ならこうやって海に行く」
貴方と聴いた音楽のことを思い出して、貴方といた時間のことを想って。

傾斜されてる土地の、無造作な森林を二転三転。タイヤの擦り切れる音と自然の音がヘルメットの中で木霊する。





これはエンドロールか。

いや多分、まだ幕が上がっただけだろう。

この映画の余韻のような風が、開幕吹き貫く風になるのを待って。



僕は両耳を塞ぐ。不愉快な風の音を消す。
爽快な風を生身の肌で感じて。


「貴方はそこに行ったんですね」


まるで閃光した走馬灯のように、新たな記録を紡ぎ出す。あの時感じなかった、あの人が今ここで感じた風に向かって、僕は歩き出した。


また意味もなく、歩き出したんだ。

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