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piece 11:思いと流れとシェイクとRe:vision

「文章を書くようにデイリータスクリストを作る」ことの意味をもう少し考えてみたい。単にリストとして書けばいいものを、わざわざ文章として扱うというとやっぱり面倒なイメージがあるかもしれない。いやまあ面倒ではあるのだが、でも本当にそうだろうか。

タスクを書くことは楽ではない

まず、リストとして書き出せばいいといっても、そもそもリストを作ることはそんなに簡単ではない。リスト(箇条書き)を文章より楽で簡便なものと考える向きもあるようだけど、リストは文章と同じくらい奥が深いものだ(舐めちゃいけない)。

単に「タスク」を書くことだって、そんなに簡単だろうか。タスクとは「実際に取れる具体的な行動」のことだが、何かをしようという思いが「実際に取れる具体的な行動」として頭に浮かぶとはかぎらない。

たとえば「今日は図書館に行こう」と思う。多くの人はタスクリストに「図書館」と書くのではないだろうか。しかしそれはタスクではない。

タスクをクリアに書くとすれば、「図書館に行って借りている本を返却し、予約している本を受け取る」だろうか。場合によっては複数のタスクに細分化した方がいいかもしれない。返却と受け取りは別のタスクだろうか。だってカウンター別だし。でも図書館に行くという行動はひとつだから、やっぱりひとつでいいか。返す本を忘れないように(よく忘れる)準備するタスクも入れておくべきだろうか。

ほら、簡単ではない。

「思い」をキャッチする

図書館に行こうという「思い」は、もっとずっと複雑で曖昧だったはずだ。「思い」は具体的でもないし行動可能でもないしMECEでもない。

実際にはぼくはフリーライティングで

そういえば図書館に行かなければ。返却期限は明後日だから無理に今日行かなくてもいいが。予約しておいた本を早く読みたい。ついでに駅前でとんかつも食べたい。

と書いたのだった。「タスク」を書こうと思えば、この「思い」を頭の中で翻訳しなければならない。これは意外に頭のリソースを消費する。ならば「思い」をそのまま書いてしまった方が楽ではないだろうか。

それに返却期限は明後日だから無理に今日行かなくていいとか、ついでにとんかつが食べたいという「思い」は、情報としてけっこう重要ではないだろうか。「タスク=実際に取れる具体的な行動」ではないからといって、切り落としてしまっていいのだろうか。

もちろんタスクリストやタスク管理アプリには「思い」を書く場所はない。でも

●レポートを書く ★絶対今日やる!!!

みたいなタスクを書いたことがあるなら(ぼくはある)、本当は「思い」を書く場所が必要だということだ。「思い」を書こうとすれば、それは自ずと文章(的なもの)になる。

返却期限は明後日だから無理に今日行くことはないよねという「思い」が書かれていれば、図書館に行けないとなったときにも(60%くらいの確率でそうなる)、ポジティブな気持ちで後回しにできる。あるいは、今日という日を満足に終えるために重要なのは図書館の近くにある「かつ勝」のロースかつ定食を食べることが絶対に必要だと気づいたときにも、確信を持って他の何かを後回しにして図書館に行ける。

ディテールとしての「思い」

アウトライン・プロセッシングの重要なテクニックとして「シェイク」がある。シェイクは、アウトライナーの中でトップダウン思考とボトムアップ思考を意識的に繰り返すことだ。トップダウン思考は構造から考えること、ボトムアップ思考はディテール(内容)から考えることと言い替えてもいい。

「トップダウンかボトムアップか」というような議論があるけれど、どちらか一方では意味をなさないということが、アウトライナーを使っているとよくわかる。構造はディテールから考えなければわからないし、ディテールは構造から考えなければわからない。なぜなら構造はディテールの影響を受け、ディテールは構造の影響を受けるからだ。

ディテールを変えれば構造が変化し、構造を変えればディテールが変化する。このメカニズムは文章を書く場合に限らず、考えること全般に当てはまる(シェイクというのはアウトライン・プロセッシングに関連したぼくの造語だけれど、考え方自体は新しくもなんともない)。

ここで問題がひとつある。タスクを扱う場合、何が「ディテール」なのかということだ。文章の場合なら、構造とディテールの関係はわかりやすい。構造はアウトライン(最終的には目次になる)であり、ディテールはそのコンテンツ、多くの場合は本文のことだ。

ではタスクのアウトラインの場合はどうか。ついついタスクそのものがディテールだと思ってしまうし、最近までぼくもそう思っていたのだが、たぶんそうではない。この場合のディテールは、そのタスクを実行するに至った背景とそれに対する「思い」の方なのだ。タスクはむしろ「思い」につけられた見出しのようなものだ。

だからこそタスクと「思い」はいっしょに扱いたい。ぼくがタスクでもToDoでもなく「DO」と呼んでいるものは、具体的な行動と「思い」が結合したオブジェクトだ(結合した状態で操作できるのがアウトラインの階層構造だ)。

タスクではなくDOを書くことで、ディテールが構造に影響し、構造がディテールに影響するという動きをキャッチすることができる。文章を書くときと同じようにシェイクできる。

「思い」をシェイクすることで生まれる変化

「思い」はランダムに浮かんでくるけれど、キャッチすることはリニアにしかできない。ぼくたちはリニアな時間の中に生きているからだ。箇条書きにしてみても、カードを使ってみてもそれは変わらない。

そしてある「思い」と別の「思い」との間にはリンクがある。文章なら「そういえば」とか「ちなみに」とか「とはいえ」とか「やっぱり」とかで接続されるようなリンクだ。「思い」と「思い」がどんなリンクを介してつながっているのか(あるいはつながつていないのか)もまた重要な情報だ。「思い」を流れのまま、リンクも含めて書き留めようと思えば文章になる。

文章の面白いところは、いったん書き始めればある種の推進力が生じることだ。「流れに乗ってつい書いてしまう」ということがあるのだ。今日を生きながらその時間の流れの中で生まれてくる「思い」をキャッチし、文章として書くことで新たな「思い」が生まれてくる。「思い」をシェイクすることでアウトライン全体が変わっていく。

ここでいうアウトラインとは、今日一日の計画であり、プロジェクトの見通しであり、今年の目標であり、人生のビジョンのことだ。この思いと変化のダイナミズムのことを生きる活動=生活というのだと思っている。

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