小説「のぶのら」(五)

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 納得がいかないままエネルギーを失ったアナログ派。当然、信二もその一人だった。新しい時代の流れのなかで埋もれてしまうもの。これはアナログ文学に限った話ではないのだと信二は感じていた。
「かつて蕎麦屋から割り箸が驚くような速さで消えていった。俺は、あんな箸で蕎麦が食えるかと思った。みんな同じ気持だと思ったよ。ところが気にする奴はほとんどいなかった。本物とか風情とかそういうものが分かる奴はもういなくなったんだよ。なあ、これは誰の所為《せい》だ。大衆の感覚を麻痺させる偽物ばっかり売ってる商売人のせいじゃないか」
「正しく流通しているものを偽物呼ばわりか。消費者が認めた物、多くの人間が有難がって使っている物、それこそが本物なんだよ。それが正義なんだよ。それよりも、商品価値が下がっているのに目を瞑《つぶ》って風情だなんだでごまかす方がよっぽど偽物じゃねえのか?」
「ごまかすって何だよ。必要なものだろう。伝統は儲けよりも優先して守るべきものじゃないのか」
「馬鹿いうな。そんなもん守ってたら潰れちまうよ。企業に出来るのは利益を守ることだけなんだよ。伝統とやらを本当に守りたいと思うなら政治家になって予算を動かすんだな」
 吾郎が睨みつける。激しい雨が屋根を叩く。信二が眼を伏せたまま小さく何か言ったようにも見えたが、聞こえるのは容赦ない雨の音ばかりだった。
「そこまでか」
 信二にはもう抗《あらが》う言葉は残っていなかった。
「帰ろう。紫乃ちゃんだって待ってる。仕事のことは俺がなんとかしてやるから」
 この言葉を受け入れることは信二にとって負けであり、永久に文学を捨てることを意味していた。紫乃と一緒に、世間で言うところの真っ当な人生を送るにはそれしか残されていなかった。吾郎を説得できなかった今、隠れて本を読みながら結婚生活を続けることは許されないのである。信二の返答を待つ吾郎。窓の外を雨の雫が絶え間なく流れて行く。

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