小説「のぶのら」(一)

「おめぇ、なに読んでやがる」
 吾郎は古びた六畳間の引き戸をズバラっと開け、踏み込むと同時にこう叫んだ。その先には背中を丸めて食い入るように書物《しょもつ》を貪る信二の姿があった。
 信二は口から出そうになった「わあ」という声を飲み込みながら戸口の方へ振り向いた。
「ご、吾郎さん……」
 まったくの不意打ちだった。軋む廊下の足音も、夕刻から降り出した雨にかき消され、吾郎の到来を教えてはくれなかった。なによりも、信二の書物への没頭がどんな刺激をも遮っていた。
 吾郎は歩み寄りながら、信二の手から開かれたままの書物を取り上げた。
「こんなもん読んでやがった。なんだ、このポンは」
「違うんだ。ずっと読んでなかったんだよ。これっきりにするつもりだったんだ」
「何が違うんだよ。なんにも違わねぇじゃねえかよ」濡れた肩が大きく震えていた。

 吾郎と信二は、ともに金沢で生まれ育った従弟どうしだった。面倒見のいい吾郎を、一人っ子の信二は兄貴のように慕っていた。吾郎は、今は巨大になった地元のベンチャー企業の営業。信二も地元の食品会社の社員だが、今は東京勤務である。

「実はなあ、俺は何度か出張でこっち来てたんだよ。お前《めぇ》に会えるのを楽しみにしてたんだよ。ところが、接待で入った店で偶々《たまたま》お前のことを耳にした。なんでも、お前が古ポン屋に出入りしてるってぇじゃねえか。まさか、そんなはずはねえと思いながらも、お前の口から聞かされるのが恐くて足が遠退《とおの》いてたんだよ。だが何度か噂を聞くうちにどうも本当らしいとなった。それでも俺は嘘であってくれと願ってたよ。だけども、勇気を振りしぼって来てみりゃぁこの有様だ」
「もう読まない。だからこのことは見なかったことにしてくれ」うなだれた信二の声は、雨に濡れた子犬のように弱々しかった。
「信二、お前はもう忘れた訳じゃねえだろう」
 その言葉に信二の肩が小さく反応した。
「電車の中でポンに夢中になって網棚に書類を置き忘れたのをもう忘れたのか。お前はあん時、もうポンは読まねえって始末書書いて誓ったよな。中学の時から毎日、読書を欠かしたことのないお前の口からポンを絶つって聞いて、俺は相当の覚悟なんだと思ったよ。紫乃ちゃんもよっぽど嬉しかったんだろう。ギュッとお前の手を握ったまま疑いのない眼でじっと見つめて、いいきっかけになった、出世が遅れるぐらい何でもないってそう言ってくれたじゃねえか。そん時お前どうした。人生やり直すって言ったよな。ちょうど単身赴任の話が持上がってた時だ。心機一転、ポンのない所に引っ越しゃ厭《いや》でも読まなくなるって。その間にゲームでも覚えて夢中になりゃあ忘れられるって。そう言ってこっち出て来たんじゃねえか。俺は、お前ならやれるって思ったよ」
 顔をふせた信二の眼から涙がポタリと落ちて畳を濡らした。
「それが、なんだよ、この様ぁ」
「頼む、俺にも言わせてくれ」信二は俯《うつむ》いたまま鼻を啜《すす》った。「そりゃあ、約束を破ったのは確かだ。それについちゃなんにも言えない。だけど、本当に俺は間違ったことをしたんだろうかって、そんな気持がどうしても消えないんだよ。最初は計画どおりだった。何もない部屋っていうのも悪くなかった。心の中まですっきりするようだった。二三日してゲームもはじめたよ。ロールプレイングゲームっていうんだってな、なんかこう、自分がその中で生きてるみたいになってて絵や音もすげえリアルで、俺はすぐのめり込んだよ。だけど、しばらくするうちになんか詰まらなくなってくるんだよ。ポンの中の世界はこんなもんじゃない、文字が教えてくれる描写はもっと生々しくてわくわくさせてくれたって。……それから俺はゲームはやらなくなったよ。そんな時だ――」

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