小説「のぶのら」(二)

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 その日も雨が降っていた。信二は客先からの帰り道、靖国通りから奥まった狭い路を神保町の駅へ向っていた。かつては古書店が並んでいたこの辺りも、三年前にできた条例の影響を受けて軒並みつぶれ、今は見る影もない。ゆっくりと小路《こうじ》を歩く信二はふと鼻をひくつかせた。古臭い店舗跡の建物が黴《かび》の匂いを放っているようだった。表通りにあった店はみな飲食店やら情報機器店やら新しい店に変っているが、少し外れると残っている店舗はほとんどない。この店もその一つだろうと信二は思った。そう思って通り過ぎようとした瞬間、信二の嗅覚が彼の足を止めさせた。
「あの匂いだ」
 それはただの黴の匂いではなかった。インクと黴と甘い紙の匂いとが溶けあった古書の匂いだった。もしかしたら営《や》っているのかも、と信二は思った。曇りガラスの引き戸の中は見えず、人の気配もない。営っていたとしても客が何人もいるはずはない。信二は思い切って戸に手を掛け、すうっと開けて中を覗き込んだ。と、その正面にかなり歳を食った男が正しい姿勢で椅子に座っていた。
「いらっしゃい」
 主人と思しき男は、小さなしわがれた声で言った。後ろ手に戸を閉めながら、信二はそう広くはない店の中を見渡した。壁の両側一面、そして中央二列に並んだポン棚。信二はなによりも、彼をこの店へ引きずり込んだその匂いに酔って、ポン棚の方へ吸い寄せられていった。
「この匂いだ」
 眼を細めて深く息を吸うと、見開いた眼に、並んだ背文字が一気に飛び込んできた。
 信二は日が暮れるまで我を忘れて貪り続けた。

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