『伝えるための準備学』古舘伊知郎×田中泰延
ロックコンサートに行った後、しばらくそれ以外のことが考えられなくなるように。
トークイベントの情景が、僕の脳内でひたすら再生されている。
『伝えるための準備学』(ひろのぶと株式会社)刊行記念
古舘伊知郎×田中泰延 「瞬間は準備によってつくられる」
本来なら、少し脳をクールダウンさせて客観的な視点から記するのが、書き手の端くれとしての作法なのかも知れないけど。
体温の上昇を自覚した状態で、思いつくまま「ダーーーーーーッ」と書き連ねる。それがオーディエンスとしての作法なんじゃないか、と思い直し、乱文乱筆を承知でアウトプットしてみることにした。(お付き合いいただけたらうれしいです)
まず全体を通して印象的だったのは、田中泰延さんの表情だ。
もうね、「ワクワク、キラキラした感じ」が伝わってきた。
古舘伊知郎さんのプロレス中継やF1実況に衝撃を受け、超ロングセラー著作、『喋らなければ負けだよ』をひたすら読み倒していたという、青年時代の田中泰延さん。
好きな人が好きな音楽を、いつのまにか好きになってしまうように。
僕も速攻、手に入れましたとも。
それにしても、影響を受けた方の書籍を、自らが立ち上げた出版社から出版するって、一体どんな気持ちだろう?
古舘伊知郎さんのプロフィールや業績についてはGoogle、Chat GPTなんかで簡単に情報を得ることができる時代だけど、「田中泰延さんが語る古舘伊知郎さん」については、全てが最新、全てが一次情報。
まるで少年のように嬉しそうに語る青年・田中泰延さんの話を聴いていると、(まだその頃はお会いしてないのに)80年代、90年代の若かりし田中泰延さんの姿が脳裏に浮かんでくる。
何もないところから「書」は生まれない。
田中泰延さんのヒストリー、古館伊知郎さんのヒストリー、2つの川の流れの合流地点で生まれたエナジーが、いろんな人たちに波及しながら、ひとつひとつの行程を経て、書という形に収束していく。その道程に「一足飛び」はない。
それらすべての可視化としての「書」の誕生を、みんなで集まってセレブレートする。この日の本屋B&Bは、そんな祝祭ムードに溢れていた。
『喋らなければ負けだよ』の著者と読者のタッグ、やはり喋りも絶妙だった。(全盛期のダイナマイト・キッドとデイビーボーイ・スミス並みに)
次から次へと繰り出される名言の波状攻撃。
僕は思わず(手元に数冊あるうちの1冊の)『伝えるための準備学』の空いたページに、座ったまま走り書きをした。時に大笑いしながら、深くうなずきながら、自身の所業を省みながら、なので、文字のユラギがとにかく激しいけれど、いくつかピックアップしてみたい。
準備は、ツラい。嫌になっちゃう。
大きな仕事を次々と、長期に渡ってやってこられた古舘さんでさえ、準備は、ツラい、と。でも、これはひとつの安堵だった。そうだよな、ツラいよな。すげー先輩でも、寅さんも、ツラいんだ。その部分において、「地続き」を感じせてくれた。
そこから、古舘さんは、こう続けられた。
途中から、たのしくなる。
脳って必ずご褒美をくれるんですよね。
根性論じゃない、精神論でもない、
「人ってそういう風にできてるからね」そんな、原理原則を伝えてくれてる。
「そうか、途中のたのしくなるところまでやればいいんだ!」
根性もない、精神も強くない僕にとって、「遠くを見過ぎて自滅しない」ための処方箋のようだった。
準備とは自分を傷つけて磨き上げていくこと
眼鏡、そして女性のネイルの話から、
磨くの本質は「細かく無数に傷つける」である、と。
研磨、という言葉はもちろん知っていたが、眼鏡、ネイルといった「具体的に存在するもの」と関連付けてもらえるだけで、ぐっと意識しやすくなる。眼鏡を、ツメを見るたびに、「磨く」を、「準備」を、意識できるかも。これはとてもありがたい。
そういえば・・・
筋肉の強化も、筋繊維の断裂と修復である。
血糖値を急激に上げるときは、いつも壊してる糖の量を減らして対応する。
骨も、壊しては造る、のサイクルを繰り返している。
傷つける、壊す、は身体の中にも「恒常的に」あるのだ。
古舘さんが自ら掴まれた叡智もまた、
「人間ってそうだよな」の場所に着陸していく。
磨く=「細かく無数に傷つける」
言葉として受け取ると、言われてみればその通り、なんだけど、
その気づきに自力で至るのは容易じゃないなぁ。
人は違和を喜ぶ
F1の伝説、アイルトン・セナを「音速の貴公子」と表現したいきさつも、スリリングだった。もともとの原案「ハイスピードの貴公子」に、音速というファンタジーが加わって、違和を生んだ例だそうだ。
記憶に刻まれる、違和。
組み合わせから生まれる、違和。
おふたりの対話から、僕が「新しい」と感じてきた衝撃には「違和」が存在していることに気づいた。
古舘伊知郎さんは書籍の中でも「違和」について、僕ら読者が手に取りやすい形で置いてくれている。
「違和」について、僕なりにこれからもじっくり考え、今後もずっと格闘していきたい。(気づき、学び、そしてテーマをもらえるって、最高だ)
その流れから、
マイノリティを撃たないと、マジョリティは獲れない
これにもシビれた。
古舘伊知郎さんが子どもの頃にみたという東京・滝野川での原風景と、全国ネットで放映されるリング上のスーパースター、アントニオ猪木に肉体美が、古舘伊知郎さんという脳(=宇宙)の中でリンクした瞬間が語られる。
「個」の記憶が、目の前の事象と絡み合って「公」に放たれる。
このあたりの話は特に、あらゆるジャンルやテーマに応用範囲が広いと思うので、ぜひオンラインのアーカイヴで。
会場では、古舘さんと田中さん、おふたりの掛け合いから、名言や面白エピソードが飛び出す度に拍手と感嘆の声が起きる。ステージとオーディエンスのライヴ感が伝わってくるはずだ。
他にも、
冷や水を浴びせてもらって原点に戻れる
きついな、と思ったら上り坂を登ってる
未来は懐かしい、過去は新しい
などなど、僕の走り書きは止まらない。
2メートル先の銃口から飛び出してきた古舘さんの言葉は、
どれも水面下にある氷山の大きさを感じさせてくれる。
名言、金言の数々が目の前で生まれる、そんな特別なライヴ体験だった。
単独のスピーカーとしてもメチャクチャ面白い、田中泰延さんが、引き出し役、進行役に徹していらしたところも大きいと思う。(光栄なことに、僕もトークライヴでご一緒いただいたことが何度もあるのだけど、田中泰延さんと一緒、というだけで、不安がどこかに消えていく)
それにしても、この『伝えるための準備学』は、まるで開示されたカルテのようだ。
世に蔓延る「こうすれば上手くいくぜ」的なものではなく、転んだ様子、失敗した様子、恥ずかしい目に遭った様子まで、正直に語られる古舘伊知郎さんのヒストリーを追体験しつつ、その過程で「準備学とは何か?」を感じることができる。
ある意味、自己表現と共に生きる人たちにとっての『地球の歩き方』でもあるだろう。
古舘伊知郎さんの実況やトークは、ヒップホップのような「サウンドに身をゆだねる心地よさ」があるのだけれど、本書も古舘さんが読者に語りかけるように進行するため、「読みやすく、しかもフレーズが鋭く刺さる快感」がある。文体にグルーヴがある。
ビジュアル的にも、明るくて、手に取りやすい。部屋に置いたとき、思わず表紙を向けたくなる。最近のYou Tubeなどで無理矢理目に飛び込んでくる「仰々しい」のサムネイルとは対極の、シンプルなデザイン。
風景を一切邪魔しないから、僕は本書を、地下鉄でも、JRでも、ブックカバーをかけずに読んでいる。(乗り過ごしにはご注意を)
古舘さん、田中さんのおふたりを起点としつつ、上田豪さん、廣瀬翼さん、加納 穂乃香さん、福島結美子さん、直塚大成さん、古舘プロジェクトさん、そして本書に関わられたプロフェッショナルのみなさんの圧倒的熱量と冷静なスキルが、本書の基礎を支えているのだろう。
今回、運良くトークライヴのオーディエンスになれたひとりとして、
「あー面白かったー!」
「カッコよかったなぁ」
「いい時間を過ごした」
という受け手としての感想はもちろんのこと、
ひとりのプレイヤーとして、
「こうしちゃおれん」
「血肉としなければ」
「修正、改善に挑む」
などなど、(相応の反省を含んだ)自己の振り返り、そしてプラスの意味での叱咤激励というギフトまで手に入れた気がする。
変化の激しい時代。
スタートからいきなり衝突しクラッシュするかも知れない。
リングサイドで想定外の事件が起きるかもしれない。
大災害で、東京民族大移動を余儀なくされるかもしれない。
でも、僕らには
『伝えるための準備学』
がある。ここには古舘伊知郎さんの叡智がある。
本書を手元に携えて、笑顔と共に駆け抜けよう!
長文、乱文、ここまでお読みくださりありがとうございました!
『伝えるための準備学』を、伝えるための準備として書きました。
二重作拓也
追伸:田中泰延さん、古舘伊知郎さんの粋なお計らいと、会場のみなさんのあたたかさのおかげで、北九州に住む母の笑顔が見れました。息子としても心から感謝します。