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【本】嫌われる勇気

■ なんすかこの本は

 一言でいうと「GoingMywayで行こうぜ。いろいろ悩みとかあるやろうけど、それは全部他人と”比較”するからやで」っていう話です。自分の人生を生きて、その過程で他人に”嫌われても関係ないじゃん”っていう話です。

 他人と比較せずに、自分が思うように生きていたら悩みなんて生まれないし、他人と比較するってことは他人の人生を生きてる状態やで。そんなん意味ないよって言うてますわ。

■ 詳細

・題名 :嫌われる勇気-自己啓発の源流「アドラー」の教え-
・著者名:岸見一郎、古賀史健
・評価 :★★★★★


■ 重要箇所と勝手な感想

 この本で言われている内容は結構なパワー理論だと思います。まさに正論ぶっ刺す様な。「すべての物事は自分がそう望んでいるから起きてるのだ」「自己の問題と他人の問題を分離し比較しなければ悩み等生まれない」とかです。

 できれば良いというのは分かるけど、実現はかなり難しいよねっていうレベル感のものです。簡単に解説すると下記の感じです。

「すべての物事は自分がそう望んでいるから起きているのだ」
 人生とは誰かに与えられるものではなく、自ら選択するものであるという強い前提の話です。過去から今がつくられてるのではなく、過去に対する意味付けによって今が決まることを説明しています。
 具体的なパワー例を一つ示します。アドラーによれば引きこもりの人間は引きこもる家庭環境や過去の経験があったから現在引きこもってるのではなく、”引きこもりたいという目的があるから過去の経験にたいしてひきこもりにならざるを得ない理由付けをしているに過ぎない”というのです。もっと日常的な例でいうと、誰かのミスに対して怒る人間はミスが発生したから怒っているのではなく怒りをぶちまけたいという目的が先にあり、ミスというものに「怒ってもしょうがない」という理由を後付けしているのだというのです。
 過去の経験によって今が形作られていくと信じてきた中で、この理論はあなり衝撃的な物の見方ではないでしょうか?「あなたが今その位置にいるのは、あなたがそこにいたいと望んでいるからだ。過去の経験なんかは関係ない」と言っているのです。変わりたくても変われない人間は、知らず知らずのうちに「変わらないことの方が良いと捉えている。変わろうとする努力をする勇気が持てていないだけ」と切り捨てます。いろいろ不満を持ちながらも「変わらないでいることの方が安心」だと心の奥底では思っていて、それを正当化する為に過去の経験にいろいろ後付けの意味を与えているだけだと。
 逆に言うと、だからこそ「ひとはいつでも変われる。いつでも幸せになる」ともアドラーは言っています。なぜなら今までの過去とこの先の未来にどのような因果関係が発生するから今の自分次第だからです。平易な言葉に直すと、「できる理由も、できない理由もある」てな感じですね。できない理由を過去の経験に見出すのはやめようぜといってます。

・「自己の問題と他人の問題を分離し比較しなければ悩み等生まれない」
 
アドラーのもう一つのパワー理論としてどの様な悩み事も他者の存在から生まれるもので、純粋な1個人だけで完結する内面のみの問題は存在しないというものがあります。この考えの根っこにも、さきほどと同様に客観的な事実に対する自分の意味付けによって今が変わるという考えがあります。
 悩みの中の一つに劣等感があります。劣等感が発生するのは客観的な事実ではなく、個人の主観による解釈により生まれます。ただし、劣等感そのもの自体は悪いものではありません。人は誰しも”今よりもよくなりたい”と願う向上心をもっています。理想の自分と現実の自分を比べて劣等感をいだくのは健全な劣等感だとアドラーは言っています。健全な劣等感は自分自身のバネとなり未来への力になります。一方で不健全な劣等感とは劣等感を感じながらそれを言い訳に、未来に対して”~だからできない””~だから自分はダメなんだ”とあきらめてしまっている状態です。これを健全な劣等感と区別して捉える為に劣等コンプレックスと呼んでいます。まさにこれは過去等の様々な外部要因に対して「だから今の自分はこうなんだ」と言いたいという目的ありきの理由付け行為に他なりません。背が低いからスポーツ選手にはなれない、学歴が低いから成功できない等です。これをアドラーは見せかけの因果関係だと言います。
 話を戻しますが、元来健全な劣等感とは理想の自分自身と現在の自分自身の比較に対して生まれるものです。しかし、ここに他者との比較の観点がはいるとたちまちそれは劣等コンプレックスに結びついてしまいます。より良い自分であろうとする。ただそれだけでええやないかと説いています。
 ただそうはいっても、社会の中で生きていく限り少なからず他人と比較し競争(優劣をつける)してしまうことは避けられないのではないかと感じることでしょう。アドラーはこれにたいして「自分の不幸は他人の幸せ、他人の不幸は自分の幸せ。」というような、隙を見せると他者に笑われてしまうような、周囲を”敵”だと認識しているからこそ生まれる考えだと言っています。別に他人が幸せでも自分の幸せが目減りするわけではないです。関係が無いのです、ですが敵という認識があると世の中の幸福はゼロサム的で理想の自分と向き合う前に関係の周囲の人間の動きにばかり気を取られてしまうのです。これが劣等コンプレックスを生み出してしまいます。他者は敵ではなく、同じ共同体に属する”仲間”だと捉えろと言います。

こっから先は「じゃあどうすれば本当に心の底から他者を仲間だと捉えることができるのか」という話になっていきますが、結構スペーシーな話になっていくので割愛します笑 ごめんね

割愛はしちゃうんですが、是非読んでみてほしいです。他者へのかかわり方を見直すことができる内容ですしひいては自分の家族という近いけれども究極的には他者である存在とのかかわり方=どこまでが自分問題で、どこからがその本人の問題かを分離することの大切さとそれが実現できた先の生き易さについて書かれています。

割愛するんですが、お勧めです。
ちょっとね今日はこれくらいでお腹いっぱいになったので終わります笑

■ ネクストアクション

最近の自分のテーマでいうと「他人の幸せをどのように捉えるか」みたいなものがあります。自分の幸せの定規で他人を測ると「あの人は幸せだな」「あの人はもっとレベルの高い幸せがあるはずなのにな(今はそじゃないな)」とか超上から目線で測ってしまいます。とはいえ他人であれば自分からみて幸せそうであろうがなかろうが関係ないんですが、未来の話でいうと自分に家族がいた場合は自分は自分の家族にたいして自分の定規で幸せ度合いを測ってしまいそうだなと思っています。これ怖いな~と思うんですよ。家族とはいえ嫁さんや子どもはそれぞれ別の人格で究極的には他人なので自分の定規で測ることはナンセンスですが、絶対測ってしまうときもあるんだろうなとおもっています。「本人が幸せならそれでいいじゃん」これを心の底から想えるような捉え方を知りたいなと最近は考えています。


■ 次に読むとすれば

 本じゃないんですが、最近友達から教えてもらってみた動画があります。
StellaYoung 【感動ポルノ】
 自分の主観でモノを見がちな自分ですが、「本人がそれで良い」ということを理解し肯定することの大切さや難しさを感じた動画です。
 障害を持っている人を見ると、いわゆる健常者である自分と比較してかわいそうというような感情を抱きます。それは究極の自分の定規で人を測っている行為なんだなと今になってやっと気づかされました。自分の定規で物事を測らないようにするためにも、人それぞれの在り方や幸せの形なんかをもっと知っていく必要があるなと感じています。


■ 終わりに
GW中に普段合わない人に何人か会いましたが、みんな自分の考えをもって生きていて自分がどんな話をしても否定せずに最後まできいてくれる、素晴らしい奴らに囲まれているなと思いましたと。

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