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映画『ゴジラ -1.0』『生きない』コンサート『宮川泰×羽田健太郎 二人の宇宙戦艦ヤマト』

(『ゴジラ-1.0』『生きない』に関して、音楽的ネタバレを含みます)

前記事
映画『ABYSS』『HOSHI 35/ホシクズ』『シン・ゴジラ:オルソ』
の続きで、最近見た映画について。

ゴジラ -1.0

『HOSHI 35/ホシクズ』も怪獣映画だし、そこにきていた怪獣ファンはみんな『ゴジラ -1.0』の話題を口にし、映画館ロビーにはデカいポスターが飾られ、上映前の宣伝枠で予告編が流れていた。おまけに前回書いた通り『シン・ゴジラ:オルソ』を急遽見にいくことになり、見に行った映画館はTOHOシネマズ新宿で東宝のお膝元だからますます『ゴジラ -1.0』一色である。まあこれは新作見にいけってことよねと思って、11月3日の公開初日に見に行った。IMAX版での視聴。

あらすじに関しては本文章では極力ネタバレしない。ただ「ダメージ」などの終戦直後には言わなかったであろう外来語、「おられる」という謙譲語を尊敬語として使う間違った用法(「いらっしゃる」が正しい)が数カ所気になった。まあそれはいい。主演の神木隆之介という人は最近の朝ドラに出てた人だが、00年代に「神木きゅん」とか呼ばれたショタに人気の子役ではなかったか?ご立派になられたのね。
音楽は佐藤直紀氏で、確か最近の大河ドラマなども書いていらっしゃる方だ。
予告編で聴いた時から思っていたが、全部打ち込み、弦中心、伸ばし音のみで、最近2000年代以降の映画音楽にありがちなアンダースコアをそのまま行っている。(団欒シーンでギター曲が出てきたが、あれは例外だ)
予告編の曲も他のトラックもポスト・ペルトというか、現代音楽関係者以外の読者向けに説明すると、エストニアのアルヴォ・ペルトという作曲家がいて、現代音楽としては例外的に聴きやすくゆったりとした作風を持ち「癒しの音楽」「新しい単純性」と呼ばれている。
(拙文では『作曲家・音楽関連の名前のバラ4-4』を参照。)
ペルトとよく並び称されたのがポーランドのヘンリク・ミコワイ・グレツキ(交響曲第2番「コペルニクス党」では出だしのショッキングな全音音階クラスターとは裏腹に第2楽章で静寂な作風となり、交響曲第3番「悲歌のシンフォニー」では全編にわたって静寂と悲壮な作風となる)であり、またペルトと同じエストニアのエルッキ・スヴェン・トゥール、ユリ・レインヴェレ、隣国ラトヴィアのペトリス・ヴァスクスなどが、ペルトの次世代(ポスト)でその作風を受け継ぎながらもよりアグレッシブな表現も取り入れている作曲家たちであり、もうそれらの世代も大家である。あとは佐藤聡明(同じ苗字だ)も近い作風だろう。
ともかく、それらの作風を強く思わせるのだが、全体的に伸ばし音が多く、確かにそれはセリフや演技を邪魔しないのだが、はっきりとしたメロディもなく印象に残らない。動くトラックもあるのだがいわゆるミニマルミュージック的な繰り返しで、しかも本来のミニマルミュージックというのは繰り返しながら少しずつ変化するものだが、これは延々と繰り返すだけで音楽に発展性がない。
で、ゴジラが現れるところで伊福部昭になる。まあゴジラといえば伊福部昭だからこれはいい。よく聞くとフレーズの末尾に手を加えてある。
ゴジラがひと暴れして落ち着いて、またクライマックスでゴジラに立ち向かうところでまた伊福部昭パートになり、例の「ドシラ、ドシラ、ドシラソラシドシラ」は、伊福部の本来の作曲意図通りゴジラに立ち向かう人間側の主題として描かれる。そのまま『キングコング対ゴジラ』(キンゴジ)のテーマに繋がるのはSF交響ファンタジーとして聴きなれている展開通りだ。要するに見せ場は全部伊福部メロディで持っていくということらしい。
最後にホッとする展開になってピアノとパッドシンセになるというのも定番すぎて納得いかない。ああいうところでメロディを出さないというのが最近の映画音楽の流れなのか?
映画が終わってエンドロールになってまた伊福部昭になったのは、先週見たシン・ゴジラのエンドロールと同じ展開かーと思ったのだが、キンゴジまでひとくさりSF交響ファンタジーの流れでやったところで佐藤パートに交替。そうそうやっぱり映画本来の音楽担当の作曲した曲が流れなきゃいかんよね、と思ったら上述の何も発展のないミニマルもどきが始まって、あちゃーと思ったら最後は初代へのオマージュの音で終わった。
いやもう打ち込みオーケストラ(的なシンセサイザー)音楽というのは一つのジャンルになってるからもうそれはそれでいいんだけどさ、弦も金管も打ち込み音だけでクレッシェンド・デクレッシェンドも全部トラックの音量操作でやっちゃってるし、木管というものが何も出てこない!そのかわりパッドシンセで全部作っちゃう。おまけにコーラスまで打ち込みっぽい音だし、終戦直後の日本という世界観に全く似合わないラテン語風のよくわからない言語のテクスト。ミックスの音量バランスはトラックごとにバラバラで、安定した音場とは全く正反対。こんなんでええん?
蛇足だが、臨時ニュースのチャイム音は真珠湾攻撃のやつを持ってきたっぽい。よりによって開戦のニュースの音を戦後の舞台設定に持ってくるのはある種の皮肉よね。
あとこれは自分が子供の頃からの40年くらいの商業的な映画音楽というものの全てに言えることだけど、サブウーファーで極端に増幅されたドンドコ低音を良しとするのはどうにも趣味が合わない。だって1970年代以前の映画ってそんなサブウーファーの音はないはずでしょ。
ミラノにいた頃(予告ポスターが貼ってあった時はローマだった)『Lo chiamavano Jeeg Robot (皆はこう呼んだ 鋼鉄ジーグ)』を見た時にも思ったが、渡辺宙明の鋼鉄ジーグのテーマ曲は本編では主人公が鼻歌で歌い、エンドロールでバラード調のアレンジが出てきたが、本編の音楽はひたすら伸ばし音のみである。こういうのが2000年代以降のトレンドだというのだから呆れる。80-90年代ハリウッドなりヨーロッパ映画なりはもっと耳に残るメロディが多かったはずだ。

生きない


続いて11月4日に観た映画はこちら。

『生きない』(蓮田キト 監督)

プロデューサー名義で横田真吾と書いてあるが、こっちの方が馴染み深い。筆者の中学高校の同級生である。主に演劇畑で長く活躍しているそうだが、長編映画を撮るのは初らしい。
前記事で触れた『ABYSS』も若干ヤクザの匂いがする夜の渋谷が舞台だったが、この『生きない』はモロにヤクザもので、ABYSSよりもさらにドギツイ。筆者としては珍しくも近い時期に足を運んだ2つのアンデパンダン indépendant (フランス語だが、映画用語では英語読みでインディペンデントというらしい)映画がここまで似てくるかというのも驚きだ。主人公(『生きない』はダブル主演扱いだそうで同列セカンドクレジットだがこっちが主演に見える久獅、『ABYSS』は監督も兼ねる主演の須藤蓮)の性格もよく似ていれば、相方(『生きない』主演としてトップクレジットの高木勝也、『ABYSS』松本亮)に暴力的な先輩役がいるのも一緒で、さらにヒロイン(『生きない』都志見久美子、『ABYSS』佐々木ありさ)の職業まで一緒である。なので男優女優共にどうしても演技を見比べてしまう。まあそれは個人的な意見は持っているが、ここでは書かない。演奏会で一般聴衆がトンチンカンな演奏批評批判をしてもその多くは的外れでしかならない。良し悪しで比べようもない、それぞれの個性と良さを見た。
ヌケ(映像美術)については、一度使用した場面が後で必ずまた出てくるのは、音楽用語で言うソナタ形式の展開と止揚を連想させて、これはとても良かった。
音楽はほとんど無い。映画全体の尺の95%は音楽無しだ。音楽製作費が少ない事情もあるのだろうが、その方がこの映画の画面に似合っているので良い。先述の伊福部昭は「俳優の演技力は楽曲のヴォルテージと反比例する。特に若い女優さんなんかで演技に慣れていないと、音楽の方で盛り上げないといけないから大変」と言う名言というか毒舌があったが、この意見は良くも悪くもほぼ音楽なしのこの映画のさまざまなシーンに当てはまる。
ごくわずかに音楽が付いているが、タイトルを表示してタイトル音楽(ギターのループ中心)が鳴り出して、すぐ2,3秒後に同じ音楽のまま「イヤフォンから漏れる音」に切り替えたのは良かった。つまり前記事で挙げたミシェル・シオンの分類で言うところの「画面外」(音が鳴っている物体が見えないが、登場人物にはその音が聞こえている)にあたる。いや、イヤフォンが見えているので「画面内、オン」と言えるか。
あとはまあ、出だしの死体の場面でパッドシンセの低音不協和音が鳴っていたのはああいう表現の定番だからご愛嬌として、カラオケスナックでミラーボールの光が回る中で鳴っていた古いテクノはお手製の打ち込みかな?ドンドコ低音が鳴らなかったのは却って良かった。(『ABYSS』にもかなり似た見た目の場面が冒頭を始め複数回あってそこは爆音テクノが鳴っていたが、流石にあれは生楽器主体の辻田絢菜さんの音楽ではないだろう。ABYSSのエンドロールにも楽曲提供TDKとか書いてあったし)
ピアノが出てくるところが2箇所あって、同じ楽曲素材のカット違いのようだったが、和声というかコード進行がクラシック畑のひとではありえない(美術的に言えばデッサンの狂った)書き方だったのと、そこに後半ではベースギター(チェロかウッドベース(つまりコントラバス)のピッツィカートのようにも聞こえるがいかんせん音源が古臭いか低価格とか標準付属品でしょぼいかのどちらか)の打ち込み音やシンバルロールのサンプリングが重なっていたので、その辺は普段ギター中心で音楽作りしているジャンルの人でピアノ曲はアマチュア的な打ち込みで対応したという感じかな?エンドロールの歌は違う人が作曲したらしい。どちらも自分とは別ジャンルで、作曲技術的視点で言えばあまり感心は出来なかった。その点では須藤蓮監督(蓮の字まで同じだ)が辻田絢菜という世紀の逸材を得てその音楽によって映画の芸術性がぐんとアシストされている『ABYSS』と対照的に、音楽面での練り込みが弱かったのは否めない。
一方で、録音の音質がクリアだったのはとても良かった。殴り音などは後ハメなのだろうがこれも大袈裟すぎず自然にハマっているし、周囲の騒音を消して主人公のセリフや息音だけになる演出も良かった。

カメオ出演で松本明子、松村邦洋が出てきて、特に松村邦洋の出演場面は観客から失笑が漏れていたが、笑っていた観客は90年代電波少年の頃からの松村松本ファンで、彼らの顔を見ればすでに可笑しいのだろう。場面としては特に面白おかしいスジでもなく、ひょうきんな演技をしているわけでもないし(そこで少々コメディ的な演技するのはむしろ相手役の高木勝也のほうだ)また全体的にコメディ映画でもない。
前記事で少し触れたルイ・ド・フュネスについて書くと、彼はフランスの喜劇王の一人で、その上の世代のフェルナンデル、ブールヴィル(どちらも芸名は苗字のみ)と並び称されるとされるが、実際に圧倒的人気の王座にあるのは断然ド・フュネスである。フランス風味のシリアスな映画にコメディの色を添える三枚目の脇役を長く続けた後、1964年にようやく50歳で映画『Le Gendarme de St. Tropez サントロペの憲兵(大混戦)』が大当たりして突如爆発的ブレイクを勝ち取った。1983年に死去するまでの主演映画二十数本は、現在もなお大多数のフランス人の記憶にとどめられ、複数のテレビ局が毎年何本も彼の映画を再放送している。
ド・フュネスがまだ主役を張るほどの成功は得ていなかった下積み時代に、ジャン・ギャバン、ブールヴィル主演『La Traversée de Paris(パリ横断)』(1954年、40歳)という白黒時代の映画があるのだが、下の動画のシーン(フランス語のわからない人でも字幕なしで十分面白いはず!)

このシーンにのみ脇役として出てきたはずの、戦時下の闇の肉屋ジャンビエ役のルイ・ド・フュネス(サムネイル左側の小柄な俳優)の演技があまりにアクの強い面白さである。「おいジャンビエ、闇商売をバラすぞ」と脅して金をゆすろうと張り合うギャバンも、いつものヤクザ映画の凄みは何処へやら完全にコメディアンになっている。ギャバンの方が大仰に演技しているが、それはド・フュネスが起爆剤として同じ舞台(画面)にいるからにほかならない。そこになだめ役の先輩喜劇王ブールヴィルのツッコミがまた絶妙である。観衆のこの映画の記憶はそのシーンのみでとどめられていると言っても過言では無く、それゆえに全編はシリアスなはずの映画がコメディとして分類されているほどである。
松村邦洋、松本明子の出演があるのなら、そのくらいのアクの強いコメディが2,3分でも欲しかった、というのは一観客の感想として言わせてもらおう。彼らはコメディアンとして超一流なので、音楽による演技のアシストなど要らない。

ただまあ、もし自分がこの映画の音楽をやっていたとしたら、やはり冒頭テーマ曲を1つ決めて、その曲からモチーフを切り出して色々な場面向けに作って、全てのトラックがテーマ曲と何らかの関連を持っている、王道の作り方をするかな(『ネズラ1964』はそのパターンで作曲した)。その王道にそってなきゃいかんと言うわけでもないが、それは演技力を補うとか逆に名演を邪魔するとかいう話ではなく、音楽による場面と場面の連携も生まれるし、音楽面でのモチーフの展開が映画の時間軸としての展開にも意味を与える。そうやって脚本(スジ)と音楽という二つの時間芸術が合わさって、そこにヌケとドウサも加わってきて一つの映画作品として止揚させるというのが、理想の映画、映画音楽としての姿なのではないか。

ともかく、初日を観覧して良かった。しかも満席だったのは素晴らしい。同級生が立派になった姿を見て感動した。蓮田キト監督、いや横田くんおめでとう!

宮川泰×羽田健太郎 二人の宇宙戦艦ヤマト

https://t.pia.jp/pia/event/event.do?eventBundleCd=b2345619



5日は宮川彬良指揮東京フィルハーモニー交響楽団で、宮川泰「交響組曲宇宙戦艦ヤマト」、羽田健太郎「交響曲宇宙戦艦ヤマト」を聴きに行った。
7月にも東京交響楽団がやってたのは知ってるのだが、6月に骨折してしまっていけずじまいだったのだ。それで残念と思っていたらこれの宣伝が流れてきて、今度こそ逃してなるものかと思ってチケットを取った。とはいえ昼の部は既に売り切れ。夜の部が残っていたので急いで買った。

この2曲、まず筆者は前者の宮川泰作曲「交響組曲」の存在だけは知っているが聴いたことは全くない。対して後者の羽田健太郎作曲「交響曲」は、中学生の時に何百回と聞き込んだ思い出の曲である。

まず宇宙戦艦ヤマトについてざっと説明しておこう。初代「宇宙戦艦ヤマト」は1974年に放映された全26話のテレビアニメシリーズで、音楽は宮川泰である。初回放送は裏番組「アルプスの少女ハイジ」に押されて視聴率が伸びなかったが、再放送で人気を得て1977年にテレビ版の総集編とも言える映画「宇宙戦艦ヤマト」が作られ、翌1978年に続編映画「さらば宇宙戦艦ヤマト」が作られた。ここでヤマトは特攻して主人公たちは全員死ぬが、「さらば」のリメイクであるテレビ版「宇宙戦艦ヤマト2」が作られ、ラストは生き残るように改変された。それの続編として映画『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』、映画『ヤマトよ永遠に』、テレビアニメ『宇宙戦艦ヤマトIII』が作られた。ここまで音楽は全て宮川泰作曲である。テレビ版ヤマト、ヤマト2、ヤマトIIIの主題歌は全て共通している。(初代は話数によってイントロのヴァージョン違いが使われた)
ここまでのシリーズ最後となる映画『宇宙戦艦ヤマト 完結編』は音楽が羽田健太郎になった。
以後、90年代に一度「復活編」が作られ、近年ではヤマト2199(音楽は宮川彬良)シリーズなどもあるが、それらはここでは触れない。
完結編が作られたタイミングで「交響曲宇宙戦艦ヤマト」が羽田健太郎により作曲され、大友直人指揮NHK交響楽団により録画収録、初演された。
少し時が経って、衛星放送が開始した最初の頃の1991年、NHK-BS2で宇宙戦艦ヤマトの映画シリーズが一挙放送され、それと同時に羽田健太郎「交響曲宇宙戦艦ヤマト」も放映された。当時中学1年生だった筆者はそれを録画し、何百回と聞き込んだのである。

羽田健太郎の作曲とはいえ、テーマモチーフは宮川泰作曲の主題歌や、主要楽曲が顔を覗かせる。ベートーヴェンも「モーツァルト『魔笛』のアリアの主題による変奏曲」を作曲しているし、他人のモチーフを使ってもそれが新たな曲と見做せるまでに改作されれば、それはもう編曲の域を超えた作曲と言える。とはいえ大部分は羽田自身の「完結編」から取られており、しかも本来4拍子のコスモタイガー(戦闘機)のテーマを3拍子にして第2楽章スケルツォで用いたりしている。何より手が混んでいるのは、これがクラシック音楽の伝統的なソナタ形式に乗っ取って作曲されていることであり、モチーフとその変容、第1主題、第2主題、展開部、再現部ときちんとフォーマットに従っている。
このソナタ形式に則った宇宙戦艦ヤマトの交響曲というのが、中学1年生の筆者の心に刺さった。筆者はヤマハ音楽教室で幼稚園児から音楽を学んでおり、小学生に入ると「専門コース」というのに振り分けられた。最初の頃は良かったのだが、途中から先生が変わって、ハッキリ言ってつまらなくなった挙句、中学3年生で辞めた。その一端として、小学4年生10歳になるかならないかという時に、石桁真礼生「楽式論」を買って読まされ、名著であることは事実だが小学生には明らかに早すぎる大人向けの教科書にウンザリしたものである。要するにそれは音楽教育のやり方としては間違っている。今ならもっと小学生向けにわかりやすい楽式なり和声なりの教科書がいくらでもあるだろう。まあそれでもそのスパルタ教育でソナタ形式の何たるかは無理やり刷り込まれたわけだが、それを用いてベートーヴェンやチャイコフスキー、はてはマーラーが交響曲の名曲を書いていると言っても小学生の心には響かない。ある時などグループレッスンの1時間全部使ってマーラーの交響曲第1番を全曲聴いたなんてことがあり、感想文を書けというから「巨人対阪神」とか適当なことを書いて先生を呆れさせた。
が、中学に上がった音楽少年の心にどストライクで響いたのが、羽田健太郎『交響曲宇宙戦艦ヤマト』だったというわけである。バブル当時、人気だった『交響組曲ドラゴンクエスト』(すぎやまこういち)をはじめ、「交響詩グラディウスIII」「交響組曲ドラゴンスレイヤー英雄伝説」「交響組曲美少女戦士セーラームーン」などアニメやゲーム音楽のオーケストラ編曲が流行って筆者もいくつかCDを買ったが、一つの交響曲(交響詩 symphonic poem でもなく、交響組曲symphonic suite でもなく、交響曲 symphony)としてクラシック音楽の伝統的ソナタ形式に則った純然たる交響曲の形式と気品を持った作品は、筆者はこの羽田健太郎「交響曲宇宙戦艦ヤマト」を置いて他にないと思っている。(むしろ劇伴目当ての聴衆が交響曲やソナタ形式のなんたるかをほとんど理解していないのではないかと危惧するが、それはそのスパルタ教育で洗脳されたせいだ)

東京オペラシティ・コンサートホール(大ホール)には毎月のように訪れている(小ホールはもっと頻繁に月3回以上は来ている)が、普段と見事に客層が違う。とはいえヤマトファンは還暦あたりがメインであり、年齢層は落ち着いていて、右も左も分からない若いファンが黄色い声をあげているなどということはない。

宮川彬良氏が一人で出てきて篠崎史紀マロ氏も加わって長いトークが始まったと思ったら、ヴァイオリンとピアノで「宇宙戦艦ヤマトを聴きにきたお客様の前で、ウルトラマンとウルトラセブンを演奏します!」と言って会場大受け。(初演が徳永二男氏だからトークでN響での話題が聞けるかと思ったが全く触れなかった)。十分楽しんだところでオーケストラ入場、宮川泰「交響組曲宇宙戦艦ヤマト」をやったが、15分であっさり終了。あ、これは短い曲だったのね。それとも今日のは抜粋なのか。ドラムやギター、ベースも入ってポップス的な音だが、木管の塗り重ね方がベッタリではあるがちょっと独特で、ああこれは「ひるのプレゼント」や「ズームイン!朝!!」の各テーマ曲で聴き慣れたあの響きだ。ブラックタイガー(初代の戦闘機)のテーマはさすがに懐かしく思った。

休憩を挟んで羽田健太郎「交響曲宇宙戦艦ヤマト」。スコア持参で捲りながら聞いた。会場でも表紙の新しくなったスコアを売っていたが、筆者のやつは初版の緑の表紙だ。(自分の周りでは他に譜読みしている人はいなかったようだが、あんだけ売ってたんだからスコア読む人がもっとたくさんいてもおかしくないはずだが。)第2楽章のダ・カーポでスマートに捲れるように、テープで印もつけてある。2018年に帰国してすぐスコアを買って以来隅々まで読み込んであるが、今回このコンサートのために集中して復習していたのだ。ちなみに音源は一切聴いていない。ひたすらスコアを黙読して頭の中で鳴らし、楽曲構造やオーケストレーションの妙技を隅々まで読み込んで覚え、最終的には暗譜するのが、オーケストラスコアの譜読みである。
なんというかもう出だしから、宮川泰と透明度が全然違う。各パートが内声部までくっきり聞こえるし、所々にオーケストレーションの細かい工夫がある。前文章でも触れた『さよならジュピター』の復元オーケストレーションをした時にも感じていたが、これが羽田健太郎のエクリチュールの底力か!

楽章ごとに拍手が入ったが、こういうポピュラーものではむしろその方が楽しめる。それにこの曲は第4楽章でソリストが入ってくるしね。ピアノの宮川知子は宮川彬良の御令嬢だそうで、つまりは宮川泰の孫娘だ。初演の羽田健太郎の力強いピアノの記憶からするとだいぶ繊細な感じだが、これはこれで雰囲気が出ていて良い。マロ氏のヴァイオリンは流石の一言に尽きる。あと、オケ中ピアノは省かれていた模様。ステージにソロとオケ中でピアノを2台乗せるスペースがなかったのだろう。
実は筆者、第3楽章でソプラノのヴォカリーズ(当曲ではスキャットと呼称)が出てくるところで、不覚にもボロ泣きしてしまった。年間50回はコンサートに通っているが、泣くことなど全くない。やはり昔からの曲を30年ぶりに聴くというのはそういうエモーショナルな感情を呼び覚ますらしい。とはいえスコアは見落とさなかったけどな。
アンコールに「真っ赤なスカーフ」(初代のエンディング)が出てきて、コンガから始まったと思ったらエレキギターやトランペットのスタンドプレイもあって盛り上がって終わった。

で、帰り道最寄り駅に着いたら20:55で、やばいと思って走って帰って、21時からNHK-Eテレ『復活!N響アワー』には無事間に合った。池辺晋一郎80歳バースデーコンサートの模様が中心だったが、これも9月にオペラシティで生で聴いた。やはり筆者は現代音楽畑の人間なので、こういう音楽の方が落ち着く。心はいつまでも前衛作曲家でいたい。


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