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引きこもり、大海を知らず。

中学生の頃、人生を投げ出した。

友達もたくさんいて、毎日部活をして、テストの点数もそこそこに良かったと思う。

学校生活に不満はなかった。

でも、気づいたら学校に通うことが怖くなっていた。

中2の終わりから欠席することが増え、3年の5月から完全な不登校に。

今となっては何が原因だったのかは思い出せない。

多分、日々の小さな積み重ねによるストレスの矛先を、学校生活に向けることで自分を納得させていたんだと思う。

14歳からの2年間、引きこもっていた頃の記憶はほとんどない。

ただ、引きこもりを終える決意をしたときのことは、今でも鮮明に覚えている。



深夜3時、両親の怒号で目を覚ました。


「いつまでも家に置いておく訳にはいかないでしょ!?」

「あの子をずっと養っていくだけの余裕なんてない!」

「お前がずっと甘やかしてきたからこうなったんだろ!」

16歳の引きこもり少年の心が折れるには、十分過ぎるほどの衝撃だった。

「あ、僕はこの家にいちゃいけないんだな。」



翌朝、2年ぶりに一人で外に出た。

色々な感情がごった返し、泣きそうになりながらコンビニに行ったのを覚えている。

タウンワークを持ち帰り、僕は生まれて初めてバイトに応募した。

それから半年間でお金を貯めて、母の名義で賃貸を契約してもらい、一人暮らしを始める。

一人で生活し始めてからの時間は、本当にあっという間だった。

極限まで低くなっていた自己肯定感を少しでも高めたいと思い、まずは高卒認定の勉強を始めた。

1年で無事合格し、次は大学に入ることに。

いつしか、人とまともに話せるようになっていた。

英語ができなかった学生時代

「英語が話せたらかっこいいな」

ぼんやりとした理由で、地元の大学の外国語学部に入学。しかし、当時の僕の英語力は、とんでもなく低かった。

入学のタイミングで受けたTOEICスコアが280点(鉛筆を転がしたほうが高得点を取れたと思う)。

当然英文科には入れるわけもなく、英語以外の言語を専攻する別の学科へと進んだ。
英語力は文字通りゼロからのスタート。

大学生活はとても充実していた。同時に、焦りも感じていた。

楽しさにかまけているうちに、日々は過ぎていき、英語力は微塵も向上しないまま卒業が近づく。

大学3年生の春、TOEICスコアはわずか340点
大学卒業という節目が近づく。

外国語学部卒であるにもかかわらず、英語力がないまま社会に出ることへの恐怖が募っていった。

卒業証書を手にするその瞬間、僕は英語がまったく話せないという事実と向き合うことになる。
それは、ただでさえ自信のなかった僕にとって耐え難い状況であった。

今のままではいけないと焦った僕は、語学留学を決意。しかし、留学費用はなかった。

「なんとかして自分を変える方法を見つけたい。」

そんな強い思いが、消費者金融での借金という決断をさせた。

なけなしのお金を握りしめ、当時流行っていたフィリピン留学へ。徹底した英語漬けの日々を送った。

朝から晩まで英語のシャワーを浴び続け、英語しか使えない環境に身を置くことで、英語への感覚が少しずつ変わっていった。

はじめは挫折しそうになることも多かったが、徐々に言葉が耳に馴染み、反射的に英語が出るように。

2ヶ月の留学を終えたあとに受けたTOEICでは、620点を記録。僕にとって大きな自信となった。

「頑張れば、僕にもできる。」

英語学習へのモチベーションが大きく向上したのとともに、新たな自信が芽生え始めていた。

ワーキングホリデーと挫折

フィリピン留学から帰国し、新たな挑戦としてオーストラリアでのワーキングホリデーを決意した。

しかし、足を踏み入れた瞬間から、理想と現実のギャップに直面することになる。

言語の壁は予想以上に高く、生活の基盤を築くことすら一苦労だった。自分の無力さに絶望する日々。

仕事探しも一筋縄ではいかなかった。英語での面接は緊張の連続で、自分の思いを上手く伝えられない。

住居を探すことも一苦労。安価でまともな住環境を見つけるのは容易ではなかった。

さらに、日々のコミュニケーションでは、言語の壁だけでなく文化の違いにも直面した。

オーストラリアの人々はフレンドリーだが、ジョークや俗語についていけない。孤立感を感じることも多かった。

ワーキングホリデーは、僕の英語力の不足を如実に示す鏡だった。

そして、たった4ヶ月で帰国することを決意。

帰国後、復学まで時間があったので、改めて英語学習に取り組み始めた。

「ワーホリはうまくいかなかったけど、休学は成功させよう。」

休学したことを自分の中で正当化させるため、必死に英語を学んだ。

8ヶ月間で計6回のTOEICを受け、TOEICスコアは875点に到達。

引きこもり経験から自信を失っていた僕にとって、英語への苦手意識を乗り越える大きな一歩となった。

教育への興味の芽生え

ワーキングホリデーの挫折から立ち直り、僕は新たな道を模索することになる。

これまで英語を学ぶ人々の姿に深く触れ、僕自身の経験を通じて何かを伝えられるのではないかという思いに駆られ始めた。

そこで大学をもう1年休学し、フィリピンの語学学校でのインターンシップへの参加を決意。

学校では、学生も社会人も関係なしに、誰もが一生懸命に英語を学んでいた。

彼らの姿を見て、英語学習は単に言語の習得だけではなく、自己成長のプロセスなんだと思うようになった。

「教育っておもしろいな。」

僕が教育に明確な興味を持つようになったのはこの頃からだと思う。

だけど当時20前半だった僕はまだ、そこに人生をベットできるほどの勇気も資金もなく、生計を立てる手段としてフリーランスの道を選んでいた。

フリーランスとしての生活

フリーランスとしての生活は、自由と引き換えに責任を伴うものだった。

自分の時間は自分で管理し、収入を確保するために努力し続けなければいけない。

それと同時に、僕自身の可能性を試す場でもあった。
新しいプロジェクトに取り組むたびに、新たな知識を身につけ、スキルを向上させていった。

フリーランスとして5年ほど働き、生活もだいぶ安定して新しい刺激がほしいなと思っていたところ、昨年の春にX(当時はTwitterだった)でこんな投稿を見つける。

これだと思った僕は、その日のうちに説明会への参加を申し込み、数ヶ月後にはバリ島に行くことに。

昨年8月に開催されたノマドニアには、合計11人の参加者が集結。
1ヶ月間のプログラムを終えた頃には、新しいことに挑戦したいという思いが高まっていた。

熱が冷める前に次のアクションを起こそうと思い、今度はノマドニアの講師に志願。

ありがたいことに機会をいただき、今年の1月にはジョージアへ。

1ヶ月程度の滞在のつもりが、気づいたら約半年、計47名の参加者に対しWebライティングとマーケティングの講座を担当していた。

さまざまなバックグラウンドを持っている人たちが、それぞれの目標に向かい切磋琢磨する。

フィリピンでのインターン時代と同様、新しいことを学ぼうと努力している人の姿を見て、教育の素晴らしさを改めて感じた。

教育者としての一歩

ノマドニアの講師をしている間、僕はジョージアの隣国アルメニアのTUMO教育センターを訪問。

TUMOで受けた衝撃は、僕の教育に対する情熱をさらに強めることになる。

TUMOでは、革新的な学習方法と生徒たちの創造性が融合している。僕は、新しい教育の可能性を目の当たりにした。

そしてある決断をした。

「よし、英語の学校をつくろう。」

僕はこれまで、世間一般のレールからは大きく外れた人生を送ってきた。

そんな僕だからこそ、教育者としての道を歩むことで、自身の人生をより豊かにし、同時に他者の人生にも価値を与えることができるのではないか。

強い思いを胸に準備を進め、2024年1月、インドネシアのバリ島に英語教育の場を開くことに。

僕は、教育が国の未来を変えると本気で思っている。

僕と同じく、学校に行くことが怖くなってしまった中高生。

惰性の日々を過ごしている大学生。

社会に出てからも、自分のやりたいことが見つけられていない社会人。

どんな人にも教育が与える影響は計り知れない。英語教育を通し、人生の学びを還元したい。

新しい世界に飛び出せる人を1人でも増やすため、僕は全力で取り組んでいく。

これまでの体験が、誰かにとっての後押しになれば、とても嬉しく思う。


New words, new world.

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