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主役なき15年〜フジファブリック活動休止に寄せて 2

帯状疱疹通信も近々書きます

2009年12月24日まるで天に召される様に旅立ったフジファブリックの志村正彦。
天才と呼ばれる人物は時に、若くして亡くなる事がある。海外では、才能豊かなミュージシャンは27歳で亡くなる事があまりにも多いので、一種の都市伝説の様に語られることもある。

志村もまた天才と呼ばれていた男だった。
少年時代の原風景を、変態的なメロディーと独特な「湿り気」のある世界で紡ぎあげる作品が多かった印象だ。
彼の低めの声がそれに説得力を持たせていた様に思う。

年が明けた2010年7月17日志村の故郷である富士吉田市にあるフジQハイランドの野外ステージ「コニファーフォレスト」でフジファブリックのイベント「フジフジ富士Q」が開催された。
学生時代にここで奥田民生のライブを観た志村少年が、人生を大きく変えて音楽の道を志すきっかけとなった原点となるのがこの会場だ。
東京でミュージシャンとして成功し、ここに故郷の錦を飾ることが志村の大きな目標であり夢だったのだと、彼の死後に知った。
志村が民生のライブを初めて見た日から15年が経とうとしていた。

氣志團、くるり、パフィー、和田唱、斉藤和義、吉井和哉など、生前の志村と親交のあったミュージシャン達15組が集まり、5時間近くに及ぶ一大イベントとなった。
一組につき2曲ずつフジファブリックの曲を演奏していくスタイルですすめられたが、トップバッターとトリを勤めたのは奥田民生だった。
同じ人間が最初と最後に出演するなど、通常ではあり得ないセトリだが、奥田民生の存在なしにはこのイベントは成立していないという所で他の出演者も納得したのだろう。
本当なら志村が歌うはずだったであろう「桜の季節」や「茜色の夕日」を
志村の人生を変えるきっかけとなった民生が歌っているのだ。
こんなストーリを誰が書けるだろうか。
「事実は小説より奇なり」以外の何物でもない。

個人的な感想として、期待してなかったパフィーが意外に上手くて、フミヤが下手だった。まぁ変なメロが多いから難しいんだけど。
マジックアワーの一番夜景がきれいな時間帯に吉井和哉が歌っている時に、ステージ下手側から、白い服を来た女が両手を伸ばして吉井に近づいてきた。最初は何かの演出かと思ったが、駆け寄ってきたスタッフに排除された所を見るとただの不審者だったようだ。当然このシーンはDVDではカットされている。

コピーバンドとしてフジの曲をかなりの曲数コピーしてライブでも演奏してきた身として少し語らせてもらう。
フジファブリックの楽曲はとにかく細かい。歌いながら細かいフレーズを弾かなければならない曲が多く、練習には時間がかかった。まずは、ギター演奏がある程度身についた後で、歌いながら弾くと言う段階に入ると言う二段構えの練習が必要だった。ユニコーンの曲は元々弾ける物が多かったので、練習にはフジファブリックに時間を多く使った。同じ様に他のメンバーもそれぞれ練習して来てスタジオで合わせる。いくら個人で練習しても、全体で合わせるのはまた別の話だ。バンド演奏は言わば団体芸だ。
全員の呼吸を合わせるのは基本中の基本だが、これが難しい。
当然だがプロの演奏には程遠く、いかに元の音源に近い演奏ができるかが俺達のテーマだった。

バンドでボーカルを担当するのは初めてだった。あまり自分の歌には自信がない。出来たらギターだけ弾いていたいと言うのが本音だが、歌う事自体は好きだから続けて来られた。お陰で発声法や呼吸法、そしてライブでは1人語りのMCもある程度はこなせるようになった。

また長くなってしまった。







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