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おそらく日記

ご案内

このnoteは、私が普段考えていることをただただ記録したものです。私はほとんど常に考えているのですが、その思考過程をいっそ全部公開してしまおう、という試みです。

各項目は時系列順に並んでおり、逐次更新されます。

テーマはおそらくバラバラですし、文章はあまりまとまっていないと思います。言ってみれば、思考のゴミ箱みたいなものです。また、このnoteに書いてあることは大体眉唾物だと思いますので、あまり真に受けないでください。

それを踏まえて、もし読みたい方がいれば、どうぞお読みください。

本編

22-07-21-0(前書き的なもの)

 突然ですが、私を突き動かしているのは、おそらく「~はなぜだろう?」という純粋な知的好奇心だと思っています。そして、この好奇心が、常に考え事をせざるを得ない自分を形作ったのだと思っています。それゆえ、このnoteは私の思考を表に出す、自己表現の一つと言えるかもしれません。

 思考の対象は、それが解決したくなる謎であるという点では変わっていません。幼少の頃は、「なぜ空は青いのか?」とか「なぜバスはこんなに揺れるのか?」とか、雑多なことを考えていました。しかし、今では「なぜ我々は現実と非現実を弁別できるのか?」とか「人生の目的はあるのか?」とか、「あ~なんか行くところまで行ってしまったねぇ…」みたいな問いを延々と考え続けています。

 ところで、こんな面倒な問いになると、自分の思考単独では限界が来るので、他者の意見や過去の議論を参照せざるを得ません。しかし、私は超アホなので本をほとんど読まずにここまで来てしまいました。これが、今のところ人生最大の後悔です。本を沢山読んで沢山理解したい、という願望はありつつも、読書に慣れていないので、習慣づけから奮闘している状態です。というわけで、「noteに書くにしても、いくらか参考文献を挙げられるようになりたいなぁ…。」というのが、実は主目標なのです。

22-07-21-1(環境と成果の話)

 私は、「ある環境に身を投じたならば、何らかの成果を得られる」ということは誤謬であると認めなければならない。なぜなら、この命題が成立するためには、私が環境に一切を拘束されなければならず、したがって意志の働きが全く前提されないからである。この前提は馬鹿げている。それゆえ、この命題は以下のように書き換えなければならない。「ある環境に身を投じたならば、自らがその成果の獲得に努める限りで、何らかの成果を得られる」と。

22-07-21-2(なんちゃって人生論)

 最近、「やけくそ」という言葉に人生の本質があるのではないかと強く思っている。なぜなら、これが生に誠実で、かつ前向きな生き方であるように思うからだ。

 底無しの楽観主義者でない限り、この世の誰もが生に対して疑義、苦痛、理不尽さを抱いたりするだろう。そして、できることなら、それらの困難から解放されたいと思うものだ。最も単純な方法は、生そのものをやめること、すなわち自殺である。

 行為主体に着目して語るなら、自殺へと向かう道は、生に対する一連の問題からの逃避を企てる、弱者の道である。ところが大抵の人は、そこで実際上の問題、すなわち実際に自殺するには多大な覚悟と勇気を要する(そして——彼らは考えるべくもないかもしれないが——多大な迷惑もかける)ことを思い知り、結局は自殺を避けるものである。こうした者は総じて弱者であり、勇気あるものは生からの逃避と引き換えにそのまま解放されていく。*

*なお、弱者というあり方が悪かどうか、勇気あるもののあり方が善かどうかは、ここでは敢えて判断しない。ただし私は少なくとも、自分が弱い存在であることを受け入れるしかないと思っている。

 さて、このように、生からは基本的に逃げられない。それでは我々は悶々と人生の目的を思索しなければならないのだろうか。それとも、生と格闘しなければならないのだろうか。いや、我々は、生の現実を引き受けるしかない。なぜかこの世に生まれてきてしまったこと、どうしても死ねないこと、生きているだけなのに苦しさを被らなければならないこと、こうした解決困難な問題の現実存在という必然性を、理解し、引き受けなければならないのである。

 このような議論を生活の基底に置く者は、もはや素朴に暮らしていくことができない。今や、生きていくことは受動的な行為に成り下がったからである。私は未来を見続けながら生を選びとっていく存在なのではなく、所与の現在的な生を苦労して引き受けながら、なんとか付き合っていかざるを得ない存在なのである。

 しかし、この受動的な在り方に拘束されながら、それでもなお前向きに暮らしていける方法はあるように思う。そういう生き方が、「やけくそ」という言葉に表れているように思うのである。すなわち、生自体を根本的に問うことをやめ、したがって人生の目的や意味を全力で棄却して、生をただそれ自体として受け止め、没方向的に全力で目の前の日常を生きようとする、そういう態度が表れていると思えてならないのである。

22-07-21-3(凡庸な考え事)

 そういえば、高校時代に校長が「カドを削って円くなるな。カドを増やして円くなれ。」というようなことを言っていた気がする。これは確かに一理あると思う。

 しかし、もし私がそのように大成するためには、もしかしたら思い切りイキって思い切り叩かれるような経験が必要なのかもしれない。理由は両極端を避ける点にある。

 まず一つは、調子に乗ってはならない、社会に従わなければならない、と強く思いすぎて、安全策に出続けること。そうすると、カドがとれて円くなっていく。外面は良いだろうが、それで本当に満足できるのか。それは、自分の全存在を他者に明け渡し、社会に包摂されることを意味するようで、いくぶん空虚なあり方に思える。(とはいえ、こういう思考は青臭いな、とも思う。)

 もう一つは、自分に自信を持ちすぎて、正確な認識ができなくなること。これはカドや円といった形状に幻覚をきたすようなイメージだろうか。これもこれで、明晰でありたい、理性的でありたいという私の願望からは逸脱する。また、誤った認識を信じて手の付けられなくなった人間が行く末は、だいたい悲惨だと思われる。

 というわけで、適切に成長するためには、プライドを肥大化させることによって安全地帯を脱し、その後徹底的にプライドを潰して、正しい現状認識を身に着けようとする姿勢を獲得する、という一連の過程が必要なのではないか、と思われるのである。

22-07-30-1(時間と休学との話)

 よく「時は金なり」と言うが、そういう言葉が何度も引用されるほどに、時間を作るのは難しい。私は時間を上手くコントロールできる人が羨ましくてたまらない。また、私は目標を定めてもことごとく達成できないし、そもそも目標を設定する能力が弱いので(というかもう報酬系が弱いのかもしれない)、時間をだいぶ浪費してしまう。

 この話が脳裏に浮かぶのは、休学を考えるときである。正直、物凄く休学したい。理由は様々ある。それは、単純にゆっくりしたいからであり、研究が進まず焦っているからであり、やりたいことが沢山あるからであり、自分は社会というものをあまりに知らないと思っているからであり、数年後雇われ人になって仕事が定まることを恐れているからであり、でもやはり単純に、自由気ままにやりたいことに取り組んで暮らしてみたいからである。

 しかし、おそらく私は休学に踏み切ることはない。親の反対という理由もあるのだが、何より私にスケジュールを運用する能力が無いのが最大の原因である。つまり、1年間休学したとして、その1年は無駄になる可能性が高い。本当に強い単一の目的がないままに長い時間を与えられると、私は行動基準を失い大半の時間を浪費する。これは経験的に明らかな傾向である。むしろ、時間制限があったほうが、(苦しいしたいへん不本意だけれども)成果が出るのである。

 限られた時間で、限られた方法で、いかに上手く行動できるのか。我々の活動には制約条件が付き物である。理想状態を考えずに、むしろ実行可能性から物事を考えるのが、よいことだろう。

22-07-30-2(コメント)

 noteを通じて、「なんかどろどろした感じ」の人格形成を目指しております。理性的・功利的でビジネスライクな体系は(少なくとも深層では)性に合わないので、無方向でエネルギーのあるまどろっこしい生き方でがんばっております。

22-07-30-3(立ちながら勉強しよう)

立ちながら勉強しよう。ちょっとキツイけど、驚くほどすぐ動けるぞ。何せちょっとキツイから。弱い負荷があると人って動くんじゃないですか。
(…というような感じはあり、おそらく「やる気がないときは体を動かそう」みたいな言説はよく見かけるが、理論的にどう説明できるのかはよくわからない。)

22-07-31-1(世界の謎と探索的思考)

「世界、問題集かよ」、という言葉、めちゃくちゃ大好きだ。これは、永井玲衣(2021)『水中の哲学者たち』晶文社 の一節だったと思うが(おそらくこれが元ネタ:https://nagairei.hateblo.jp/entry/2017/03/14/002219)、この世は本当に分からないことだらけだ。

 私は小さい頃から図鑑を見るのが好きだったのだが、それは世界の謎が一つずつ明らかになっていくことが最も実感できたからである。22-07-21-0でも書いたが、やはり、この21年弱の人生はずっと世界の謎を考え続けてきた人生だったと言える。

 この、考えるということ。思考というもの。時々、これは何なのだろう、と考えることもある(メタい)。思考は、謎を解明するための道具でもあるし、活動を行うための道具でもある。しかし、性質は使われ方によって異なるのではないか?

 大学の授業で先生が言っていたが、思考には探索的思考と検証的思考があるらしい。このことは複数の場所で言われているようだ(これとか、これ)。ざっくりと捉えるなら、問いを探索するのが探索的思考で、問いを検証するのが検証的思考、だろうか。

 「世界、問題集かよ」。この言葉が出てくるのは、ひとえに問いの探索をし続けてきたからこそなのかもしれない。哲学の先生は、授業内でよく「よく分からなくなったら成功です」と言う。「分からないことが増えるなんて、勘弁してくれよ」と思う人もいるだろうが、これも結局「問いを探索する」営みであり、問いの探索にこそ哲学の価値がある、とさえ言えるかもしれない。

22-10-05-1(概念についてのメモ)

 たいていの概念は、対置される概念が無いと明確にならない。

 例えば、自由という概念はひとりでに定義されるというより、不自由の否定として成立する側面がある。すなわち、自由は「不自由でないこと」とさしあたり定義でき、自由と不自由の比較検討を通じて自由概念の内実が明らかになっていく。

 このように、概念を別の概念と対置させること、換言すれば概念Aを「NOT (NOT A)」として記述することによって、概念はより明瞭に分析されるのだろうと思う。

22-10-05-2(二項対立の話)

 まず、近現代は、二項対立を乗り越えることが大きなテーマだったのではないか、という話を考えていた。真偽のほどは分からない。しかし、二項対立について考えるいい機会だと思ったので書いてみる。

 二項対立の克服ということは、先日読んだ環境倫理学の本に書いてあったのだが([1]序章)、そういえば、行動科学でも社会学でも文化人類学でも言われていたような気がする。主観-客観、個人-社会、人間-自然、等々。

 確かに、二項対立は便利である。問題を2つの要素と1つの対立関係で表現でき、問題の理解を助けるからである。しかし代わりに、二項対立は問題の本質をいくらか取りこぼすきらいがある。

 じゃあどうするか。おそらく、項を増やすのは無理筋である。せいぜい三項対立までだろう。以下、少し考えてみよう。

 最も単純な構造の対立は二項対立である(一項では対立が起こらない)。 ところがn項対立は二項対立に還元しないと理解しにくい。そうすると、n項対立に含まれる二項対立の総数は、2C2=1; 3C2=3; 4C2=6; 5C2=10; … となり、4項にもなると対立項が多すぎて人間の頭がパンクしてしまう。

 そもそも、n項対立は要素として二項対立を含んでいて、その意味では結局二項対立の複合形態なのだから、項を増やしたところで二項対立を克服することは不可能ではないか、という考えもあり得る。

 さて、ここで少し考察の道を立ち返ってみる。二項対立の問題は、「問題の本質をいくらか取りこぼす」、すなわち問題の全貌を適切に捉え切れないことに求められるのだった。ところで、二項対立の構成要素はさしあたり、
  (1)「二項」であること
  (2)「対立」であること
だと考えられる。

 上記の事情を踏まえると、n項対立に関する先の考察は(1)に焦点を当てていたものだと理解できるが、(1)での方策は上手くいかなかった。

 それゆえ、(2)に焦点を当てること、つまり対立関係を問い直すことが二項対立克服のキーになるかもしれない。

 二項間の関係は対立だけではない、というケースは割と散見される。例えば、よく日韓関係は冷え込んでいると言われるが、しかし両国は双方にとって3番目に大きな貿易相手国であり、民間レベルでは文化的交流も盛んである([2], [3][4])。つまり、対立、相互依存、友好関係、といった諸関係が同じ二項間に共存している場合があり得るのである。

 まあ日韓の例はいささか実際的すぎたかもしれないが、他にも、両者の間に相違点と共通点が同時に見出せる事例などは指摘することができる。

 このように考えると、対立という関係の問い直しはそれなりに上手くいきそうである。とはいっても、関係の種類をm個としたところで、n項対立と同様、依然としてmが増えすぎると脳がパンクするという問題は残る。したがって、項を固定しながら関係を少し増やしてみる、くらいで妥協したほうがよいのかもしれない。ただ、それだけでも、見えている問題はずっと豊かに映ってくるはずである。

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