現実主義的架空創作とロマン主義的架空創作と現実への問題

(要約:これは端的に言えば、現実主義的架空創作・ロマン主義的架空創作がそれぞれ違うアプローチをするのにどちらも現実との問題に直面してしまう、という興味深い話である。)

 この話をする前に、まず私が架空創作を現実主義とロマン主義に大別していることを説明しなければならない。端的に言えば、現実主義的架空創作とは、リアリティを核とするものであり、ロマン主義的架空創作とは、表現性を核とするものだと言えよう。現実主義においては、作品は現実への融合を志向する。こうすることで、例えば「本当にありそうだ」という価値が増幅する。対してロマン主義においては、現実からの逃避を志向する。こうすることで、例えば「何でもできる」という価値が増幅する。私は架空創作の思想をざっくりと両者に分けられると考えており、この後述べる話もこの考え方に基づいている。

 さて、本題に移ろう。ついさっき、とても興味深いことに気が付いた。現実主義的架空創作では「現実を追い越してしまう」問題が発生するのに対して、ロマン主義的架空創作では「現実が追い付いてしまう」問題が発生するということである。

 現実主義的架空創作ではリアルさを追い求めるので、現実性から離れるような設定は避けねばならない。しかし、度々そういう事は起きてしまうし、現実を超越した設定を作ってしまう。

 他方、ロマン主義的架空創作では、現実性への制約を突破し自由な表現ができるため、現実では到底成し得ないような設定に価値が生まれてくる。しかし、そのような設定が稀に実現してしまったりする。まさに「事実は小説よりも奇なり」である。

 両者のアプローチは明確に異なるのに、どちらも現実との問題に直面するのである。このことを考えれば、いくら架空であっても、現実という確かな軸が存在し、関係を持たざるを得ないことが暗示されているのだと言える。

 考えさせられる一件だった。

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