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親ガチャにさせない場所。

いつもありがとうございます。
5年生の男の子とポケモンカードの話題で盛り上がった翌日、結構なクオリティの手作りポケモンカードをプレゼントされた、学校事務職員のタクトです。
#リザードン一番好きと言ったらくれた
#世代的に金銀シリーズくらいまでのことしか知らんけど

さて、今日は、学校という“場所”があるから救えてる子どもたちというテーマで書こうと思います。



子どもを救える場所になっている学校

世間一般から見る小中学校には、時にネガティブな意味合いで「全員一律」「みんな同じことを同じように」みたいなイメージがあると思います。あと、「昔から変わらない」みたいのも。

僕は学校現場のど真ん中にいて、中身を見てる人間なのでそのまま全てがその通りだとは思ってませんが、そういったイメージを持たれているということはそういった“側面もある”場所なのだとも認識してます。

でも、そういった側面のある「学校」という場所だからこそ、救えてる子どもたちがいるなぁと思うこともあります。

例えば、貧困家庭の子どもたちの食事です。「給食」が、唯一のしっかりとした食事をとる貴重な機会になっている子が実際にいます。

それから、友だちと関わって楽しく過ごす時間。家庭の事情や習い事の都合など、学校があるから、友だちと遊べる時間がとれるという子たちもいます。

大人との関わりなんかもそうです。家庭ではそういった関わりを持つ機会が取れない子や、そもそも親御さんからの愛情をしっかり受け取る事が少ない子も現実にはいて、先生たちとの関わりに親御さんから不足している愛情を求めて過ごしている子もいます。(その是非は別として。)


今挙げた様なことは、学校がそれらを全て背負うという意味では全くないですし、もちろん根本的な解決を目指して社会全体としてやっていかなきゃいけないことです。それに、公共・民間問わず、そういった問題を解決する機関はたくさんあるのもわかってます。

その場所が“学校”であることの特徴。

でも、それでも、学校という場がすごく大切だなと思うのは、学校には“場所”としての他には無い3つの特徴があると思うからです。

①みんな一律

1つ目は、学校が「みんな一律に恩恵を受ける」場所だということです。

みんな同じというのは今の時代、ちょっとネガティブイメージがあります。というか、学校も「個別最適な学び」だったり子ども一人一人を見た教育に入っています。(僕は教員ではないのでこれ以上は語りませんが、どんどん進んでいます。)

僕が言いたいのはそこではなくて、もっとベースの部分、みんな同じように先生と関われるとか、給食を同じように食べれるとか、授業を受ける道具や環境が同じように与えられるとかです。

これらのことが、その子を取り巻く環境に関係なく、学校に来れば、当たり前に“どの子も同じように”恩恵を受けられます。

②長い期間変わらない


2つ目は、学校が(ポジティブな意味で)あまり「変わらない」ことです。


1つ目のところであげたようなことって、学校という場が誕生してからもう何十年と変わっていないことです。


なんか当たり前過ぎて気にならなくなってますが、これって結構凄いことだと思っていて、これだけの長い年月を同じシステムを機能させ続けているのは特別なことなはずです。

だって、これが民間だったら、(もちろん、もっと良いサービスや仕組みを作れることはあるかもしれないけど、)売上や需要の増減によって、止めてしまったり途切れてしまったり縮小してしまったりということがあると思うので。


③多くの時間を過ごす


3つ目は、学校が、「子どもたちが、生活の多くの時間を過ごす場所」になっていることです。


このこと自体の是非は関係なくて、今現状がそうだということです。

家庭環境や生い立ちや(良くも悪くも)本人の意思に関係なく、その他、子どもたちを取り巻く様々な状況に関わらず、日本の子どもたちは1年のかなりの時間を学校という場で生活しています。これは学校という場のとても唯一無二と言ってもいい特性です。
#日本中のどこを探してもそんな場所やシステム他に無い

学校という場所の現状

なので、まとめると、現状「子どもたちが1年の大半の時間を過ごす場所」である学校が、昔から「変わることなく」、「どの子にも一律に人生に必要なサービスを提供している」ということです。

「親ガチャ」・・・という言葉をここ数年で聞くことが時々あるようになりました。

この言葉自体は僕は好きな言葉じゃないですが、その言葉を使う人たちが言わんとしてる事自体は、わかります。

子どもにとって、どんな親の元で育つかはその子の人生に大きな影響を与えるのに、子どもはどの親のもとに生まれてくるかを選べないんだから親ガチャじゃん。という感じだと思います

確かに、親の影響は大きいです。
でも、子供は親との関係だけで育つわけじゃない。それ以外の周りの人間や社会の影響の中で育っていくはずです。ていうか、そういう考え方、そういう意識をもった方が良いと思ってます。
さっき親ガチャという言葉が好きじゃないと言いましたが、その理由として、いくつかある理由の一つに、そもそもの、「親や家庭によって大きく差が出てしまう。」という概念をあまり使いたくないというのがあります。

だって、そりゃこれだけたくさんの親になった人間がいる中で、色々な人がいて当たり前じゃないですか。
子育てが苦手な人もいれば、我が子を上手に可愛がれない人もいる。なんなら自分の子に愛情をあまり注げない人もいるかもしれない。というか現実いますよね。

でも、これって、「親としての自覚が」とか、「子どもを産んだからには」みたいな、気持ちとか道徳的なことは一旦置いておいて、単純に確率的に見たら、当然そうゆう人(親)も出てくるのが当たり前だと思うんです。
(その是非を議論してるわけじゃなく、確率的に有り得る事象という話です。)

て、なったときに、大事なのって、社会全体として、子育てを「親だけに押し付けない。」ということだと思います。

さっき僕があげた例は極端だとしても、「子ども好きだけど、子育てに悩んじゃって辛い。」もしくは「子どもを愛してるけど、生活が困窮してて困ってる。」という人たちって全然普通にいると思うんです。
だって、これって、“気持ち”とか“意識”とかの話じゃなくて、「タスクを上手く回す(それによって心の余裕をつくる。)」とか、「子ども育てるのに十分な収入を得て生活を回す」みたいな、基本的には“スキル(能力)”の話なので。


そして、それすらも、「いやいやお前が子ども欲しくて産んだんだからお前が頑張れよ。」っていう自己責任論があると思うんですけど、それってすごく息苦しい世界じゃないですか。
僕は、その考え方って、あんまり優しくないなぁと思います。

どんな状況であれ、子どもは社会の「未来」そのものなんだから、みんなで育てていけばいいのに(その意識を持てばいいのに)と思ってます。

もちろんだからと言って、親は何もしなくて無責任で良いって話ではないです。そんなわけない。

ただ、さっきも言ったのように確率的に親任せだととても厳しい家庭は出てきてしまう現実がある。
そして、その上で、単純に子どもには何の落ち度もないんだから、みんなでサポートしてあげようよ。という話です。


学校という場所が、そういったサポートが必要は家庭環境、というか子どもたちの受け皿に当たり前になっているんです。
最初に言ったように学校がそれを背負うということじゃなくて、社会全体として子どもを育てるという考えにたったときに、学校という場所があることによって果たしてる役割がめちゃくちゃ大きいということです。

これは何かの本で読んだとか、何かのデータがとかじゃなくて、僕が学校の現場ど真ん中にいて、そこで自分が肌で感じてきたことです。

学校に来れば、少なくとも、そこで過ごす時間だけは、普通にご飯が食べれるし、普通に安全に生活ができるし、普通に人と関われる。もちろん勉強もできる。

こーやって、家庭以外の場所で当たり前に子どもをサポートできたりする方向に社会が進化してくと良いなと思います。

これは多分、機関とか設備とかシステムとかではなくて(いや、それも大事だけども。)、最終的なゴールは、社会の「文化(雰囲気)をつくる」みたいなことなんだと思います。

なので、めっちゃ時間はかかるかもだけど、当たり前に子どもをみんなで育てていく雰囲気が広がるようにちょっとでも力を尽くしたいなと思います。

親ガチャなんて言わせねーぞ。


学校現場からは以上でーす。


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