見出し画像

きょうの素問 玉機真蔵論篇 第十九(8) 2024/1/25

長かった玉機真蔵論も8回目にしてようやく最後になりました。
今回は、病の予後、時節に応じない脈象、虚実の不一致といったてーまについて論述されています。
それでは見ていきましょう。

黃帝曰 凡治病 察其形氣色澤 脈之盛衰 病之新故
乃治之無後其時 形氣相得 謂之可治
(黃帝曰く、凡そ病を治するに、其の形氣色澤、脈の盛衰、病の新故を察して、乃ちこれを治せば、其の時に後るることなし。形と氣と相い得る、これを治すべしと謂う。)

※ 形氣色澤 脈之盛衰 病之新故
病気の予後を診るためのポイントがまとめられています。
形 - 肉体(物理的な構造)の盛衰
気 - 精気もしくは機能的な働きの強弱
色 - 顔(皮膚)の色
沢 - 顔(皮膚)のつや
脈 - 脈気の虚実
病 - 急性、慢性

※ 形氣相得
馬蒔の解説
「形とは肉体である。気とは主要な正気である。」
王冰の解説
「気盛んにして形盛んに、気虚し形虚す。是れ相得るなり。」
 
色澤以浮 謂之易已
脈從四時 謂之可治
脈弱以滑 是有胃氣
命曰易治 取之以時
(色澤いて以て浮する、これを已え易しと謂う。
脈、四時に從う、これを治すべしと謂う。
脈、弱にして以て滑なるは、是れ胃氣あり。
命けて治し易しと曰う。これを取るに時を以てす。)

※ 色澤以浮
張景岳の解説。
「沢とは潤うである。浮は明らかということである。顔色の明潤なものは、必ず治りやすい。」

張景岳先生の解説の影響か、テキストでは「澤」を形容詞的に「色澤(うるお)いて以て」と読み下していますが、「澤」は名詞の意味しかないとのご指摘を頂きました。
「色澤以て浮、」と読んだ方が自然かもしれません。

ちなみに、「澤」は八卦のひとつ「兌 ☱」の象徴でもあります。
『周易』 兌爲澤(☱)
兌說也
剛中而柔外 說以利貞 是以順乎天 而應乎人
說以先民 民忘其勞
說以犯難 民忘其死
說之大 民勸矣哉
(兌は說なり。剛中にして柔外なり。說びて以て貞なるに利し。ここを以て天に順い人に應ずるなり。
說びもって民に先だつときは、民、其の勞を忘れ、
說びもって難を犯すときは、民、其の死を忘る。
說の大いなる、民勸むかな。)

坎(☵)が流れる水を表すのに対して、兌(☱)は溜まった水を表します。十分に水をたたえている=潤っているという理解になるのだと思います。

※ 易已
以前にも触れましたが、紛らわしい「已」と「巳」と「己」をまとめておきます。
已は「イ」あるいは「やむ、すでに、はなはだ」。
巳は「シ」あるいは「やむ、ああ、み(十二支)」。
己は「キ・コ」あるいは「おのれ、つちのと(十干)」。
「やむ」の読みがかぶっていたり、十干・十二支が混ざっていたりで余計にまぎらわしいですね。
テキストではこの部分を「已(い)え易し」と読み下していますが、これは誤りではないかとご指摘がありました。
確かに読み下しであれば「音」ではなく「訓」で読むべきですので、ここは「やみやすし」と読むべきでした。
ちなみに、柴崎先生は已について、「この字は、もとはスキの形を画いた象形文字で耜(スキ)の原字である。つまり曲がった木の枝を切って耕作の
さいにスキの用にしたものだろうと言われている。其の本義は「人間が道具を用いて工作する」意味を表すものであるが、止(やめる)に当てて仮借的に用いられる。」と説明しています。

 
形氣相失 謂之難治
色夭不澤 謂之難已
脈實以堅 謂之益甚
脈逆四時 為不可治
必察四難 而明告之
(形と氣と相い失う、これを治し難しと謂う。
色夭れ澤しからざる、これを已え難しと謂う。
脈實にして以て堅なる、これを益ます甚だしと謂う。
脈、四時に逆するは、治すべからずとなす。
必ず四難を察して、明らかにこれを告げよ。)

※ 形氣相失
王冰の解説。
「肉体が盛んで気は虚していたり、気が盛んで肉体は虚しているのは、みな「相い失っている」のである。」

※ 色夭不澤
王冰の解説。
「夭(かれ)るとは、(顔色が)明らかでなく、よくないこと。澤(うるわ)しからずとは、乾いてひからびていることをいう。」
ここも、上述したように、「不澤」は名詞として「澤ならず」と読むべきか。

 
所謂逆四時者 春得肺脈 夏得腎脈 秋得心脈 冬得脾脈
其至皆懸絕沈濇者 命曰逆四時
(いわゆる四時に逆すとは、春に肺の脈を得、夏に腎のこと、皆脈を得、秋に心の脈を得、冬に脾の脈を得て、其の至ること皆懸絕・沈・濇なる者は、命けて四時に逆すと曰うなり。)

※「逆四時」の脈、その1です。五行の相剋関係の脈がでるのは「逆四時」だと述べています。

春: 肝木 ← 肺金
夏: 心火 ← 腎水
秋: 肺金 ← 心火
冬: 腎水 ← 脾土

※ 懸絕
「懸」は今までも繰り返し出てきていますが、首を切って、逆さに木の枝にぶら下げている様子。不安定で絶えそうな脈(死脈)を指していると思われます。

『素問』陰陽別論
凡持真脈之藏脈者
肝至懸絕急 十八日死
心至懸絕 九日死
肺至懸絕 十二日死
腎至懸絕 七日死
脾至懸絕 四日死。
 
『素問』三部九候論
九候之脈 皆沈細懸絕者為陰 主冬 故以夜半死
 
『素問』通評虛實論
歧伯曰 脈懸絕則死 滑大則生
帝曰 腸澼之屬 身不熱 脈不懸絕何如


 
未有藏形 於春夏而脈沈濇 秋冬而脈浮大 名曰逆四時也
(未だ蔵の形非ず、春夏に於て脈、沈・濇、秋冬にして脈、浮・大なる、名づけて四時に逆すと曰うなり。)

※「逆四時」の脈、その2です。
陽気が強まる「春夏」に脈が「沈・濇」であったり、陰気が強まる「秋冬」に脈が「浮・大」であるのは「逆四時」だと述べています。

 
病熱脈靜 泄而脈大 脫血而脈實 病在中脈實堅 病在外
脈不實堅者 皆難治
(病、熱して脈、靜。泄して脈、大。脫血して脈、實。
病、中に在りて、脈、實堅。病、外に在りて、脈、實堅ならざる者は、皆治し難し。)

※ 病態と脈が応じていないのは皆「難治」だとしています。
熱:脈「数」が本来なのに「靜」。
泄:脈「小」が本来なのに「大」。
脱血:脈「虚」が本来なのに「実」。

※ 病在中脈實堅 病在外 脈不實堅者
『新校正』は「平人氣象論篇では「病 中に在りて、脈虚、病 外に在りて、脈濇堅」といっており、こことは逆である。この経文は誤りで、平人氣象論の文が正しい」と述べている。

 
黃帝曰 余聞虛實以決死生 願聞其情
(黃帝曰く、余、虛實は以て死生を決すと聞く。願わくは其の情を聞かん。)

※ 情
『説文解字』には「人の陰気にして、欲有る者なり」とある。性を陽、情を陰とする考えは『白虎通』や『論衡』など漢代性情論に一般的であったという。のちに性を体とし、情をその用とする宋儒の性情論に展開する。
『礼記』に人の七情をあげ、それを「学ばずして能くするもの」、すなわち本能的なものであるとしている。 


歧伯曰 五實死 五虛死
(歧伯曰く、五實は死し、五虛は死す。)
 
帝曰 願聞五實五虛
(帝曰く、願わくは五實五虛を聞かん。)
 
歧伯曰 脈盛 皮熱 腹脹 前後不通 悶瞀 此謂五實
脈細 皮寒 氣少 泄利前後 飲食不入 此謂五虛
(歧伯曰く、脈盛んにして、皮熱し、腹脹り、前後通ぜず、悶瞀する、此れを五實と謂う。脈細く、皮寒く、氣少なく、泄利前後し、飲食入らざる、此れを五虛と謂う。)

※ テキストではこの部分を五蔵に邪が入った状態として現代語訳しています。
脈盛 → 心が邪気を受ける
皮熱 → 肺が邪気を受ける
腹脹 → 脾が邪気を受ける
前後不通 → 腎が邪気を受ける
悶瞀 → 肝が邪気を受ける

※ 悶瞀(もんぼう)
悶 
説文解字では「懣なり。」心中がいっぱいになって悶える状態。むなぐるしい。
 
瞀 
説文解字では「目を低くして謹んで視るなり。」よく見えない状態。
 
『霊枢』経脈篇
其小而短者 少氣 甚者寫之則
甚則仆 不得言 則急坐之也
 
『金匱要略』婦人產後病脈證治
產後風 續之數十日不解 頭微痛 惡寒 時時有熱 心下
乾嘔汗出 雖又 陽旦證續在耳 可與陽旦湯
 
『霊枢』経脈篇
(肺手太陰之脈)
是動則病肺脹滿 膨脹而喘咳 缺盆中痛 甚則交兩手而此為臂厥
(ここでは、瞀を「みだるる」と読み、「物を見ると曖昧模糊としてはっきりせず、精神が混乱していること」と注がついている。)


 
帝曰 其時有生者 何也
(帝曰く、其の時に生くることある者は何ぞや。)
 
歧伯曰 漿粥入胃 泄注止 則虛者活 身汗得後利
則實者活 此其候也
(歧伯曰く、漿粥、胃に入りて、泄注止めば、則ち虛する者は活く。身汗し、後、利得れば、則ち實する者は活く。此れ其の候なり。)

※ 漿粥入胃
虚証の場合、吸収されやすい状態の炭水化物が胃に入ると助かる、というのは、たとえば湯液でいえば建中湯に膠飴が入っていることと通じるように思います。

※ 身汗得後利
 実証の場合、発汗したり排泄すると助かるというのも、漢方でいう所の「汗吐下」に通じるものがあるのかもしれません。

本文は以上となります。
長い篇でしたので、最後にまとめを挙げておきます。

・四時五蔵の脈象がそれぞれ異なっているのは、脈が気候の影響を受けるからである。これは、人体が気候の変化に応じていることの現れでもある。
しかし、脈が病邪の侵入の影響や、正気の虚実の変化による影響を受けると、脈象には太過と不及の変化が現れる。

・疾病の伝わり方には一定の順序がある。ただ、五種の情志の変動によって起きる疾病は、六淫の影響で起きる疾病の伝わり方とは異なる。

・真蔵の脈の詳細を明らかにし、同時に真蔵脈から死期をも予測できることを述べている。また、真蔵脈が出現する機序と、なぜ真蔵脈が現れると人は必ず死亡するかの理由を明らかにしている。

・患者を診察するにあたっては、病邪が身体の浅いところから深い体内へ侵入していく過程を捉え、適切なタイミングを捉えて治療しなければならないこと。そうしなければ、病邪はさらに深く侵入し、治療の効果が上がらないのみならず、病は重くなり、予後も良くないことを述べている。

・五虚と五実の症状と予後について。また、実証であるものが邪気を去ることで、虚証であるものが胃気を取り戻すことができるならば、危険な状態から脱して快方に向かうことができると述べている。

以上になります。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
次回からは「瘧論篇」を読んでいく予定です。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?