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きょうの素問 瘧論篇 第三十五(2) 2024/2/8

瘧論篇の2回目です。
前回は瘧の病態が、どうして間欠熱のような、発熱と平熱を繰り返すのか、その仕組みについての考察の部分でした。
確かに、通常の病気であれば、発症初期から症状は徐々に重くなり、そのまま悪化して死を迎えるか、あるいは症状のピークを過ぎた後徐々に回復して良くなる、という経過をたどるはずですが、瘧の場合、短期間のうちに、発熱と平熱を繰り返すという点で特徴的であり、どうしてそうなるのか、という考察の対象になったことが伺われます。
今回はその点を黄帝がさらに詳しく岐伯に教えを乞う場面です。

帝曰 其間日而作者何也
(帝曰く、其の日を間して作るは何ぞや。)

※ 間日
王冰注
「日を間するを隔日と謂う。衛気と相い逢会せず。故に隔日に発するなり。」
 
馬蒔注
「此れ瘧の日を間して作る所以を言うなり。日を間して作る者は、邪気の深く舎するに由って内栄気に薄する間、かの五蔵の募原を横連するより、其の道遠く、其の気深く、其の行遅る。彼の衛気は毎日独り外に發し、此の陰邪は内に付著す。独り発するものは其の行速くして、内に著く者は其の發すること難し。陰邪方に衛気と相拒して争い、衛気と倶に行くこと能わずして皆出ずることを得ざるなり。是を以て日を間して作るのみ。」
※馬蒔はこの病態を募穴と原穴の関連性(距離?)で説いている。

張志聡注
「邪気の舎すること深く、内裏陰の分に薄して陽気独り外に發し、裏陰の邪、内に留著し、陰邪と陽気と交争して皆外に出づるを得ず。是を以て日を間して作るなり。按ずるにこの節経文の五蔵募原に薄すると、之が因同じからず。」
 
森立之先生案
「其気」謂邪気也。「内薄於陰」謂募原也。蓋募原蟠踞之邪 不容易發泄 雖当營陰與衛陽相争之期 自己之陽気独発。瘧之陰邪内著 故不得毎日發出 待其營陰之気盈満 排出瘧邪 而後発瘧證 故間日而作也。
 
家本先生注
「発作は邪気と陽気すなわち衛気が陽の部位でぶつかり合った時に起こる。隔日に起こる場合は、両者の合体が陽の部位に昇るまでに時間がかかるというのである。」

 
歧伯曰(★) 其氣之舍深 内薄於陰 陽氣獨發 陰邪内著
陰與陽爭不得出 是以間日而作也
(歧伯曰く、其の氣の舍すること深く、内は陰に薄り、 陽氣獨り發す。陰邪、内に著き、陰と陽と爭いて出づることを得ず。是を以て日を間して作るなり。)

※ 今回の段落の最後の部分((☆)以降の部分)は本来は(★)の部分に入っていたのではないか、というのが高士宗の指摘です。多紀元簡も「この一節は前節の答語であり、錯簡であることは明らかである。」としています。以下、その指摘にそって再構成し、読んでいきます。

歧伯曰 其間日發者 由邪氣内薄於五藏 橫連募原也 其道遠
其氣深 其行遲 不能與衛氣俱行 不得皆出
故間日乃作也
(歧伯曰く、其の日を間して發する者は、邪氣、内に五藏に薄り、募原を横に連なるに由るなり。其の道、遠く、其の氣、深く、其の行ること遲く、衛氣と俱に行ること能わずして、皆は出づることを得ず。故に日を間して乃ち作るなり。)

※ 募原(ボゲン、バクゲン)
王冰の注。
「募原とは、膈募の原系をいう」

多紀元簡の注。
「膜はもともとその意味を帷幕の「幕」に取る。膜は薄い皮をへだてて、邪気をさえぎるものであり、上に引いた幕のようなので、幕という名でよび、肉(にくづき)を組み合わせて膜としたのである。これを「募の字に作っているのは、幕の字を誤ったものにすぎない。「太陰陽明論篇」に脾と胃とは膜によって互いに連なっているにすぎないとあり、「太素」では膜を募に作っていることから、募と幕とが互いに誤って使われたことがわかる。」」

鍼灸医学事典では、膜原(募原)の項に、以下のようにある。
「① 胸膜と横隔膜の間の部分を指す。また募原ともいう。「素問」挙痛論篇には「寒気胃腸の間、膜原の下に客すれば、血散ずるを得ず。小絡急ぎ引くが故に痛む」とある。王冰注には「膜は膈間の膜をいい、原は鬲肓の原をいう。」とある。②温病弁証で邪が半表半裏の位置にあることをいう。」

家本先生注
「募の字は力がないことを示し、ないものを求めて努力することである。鍼灸では胸腹部にある内臓の反応点(募穴)をいう。しかし『素問』『霊枢』の段階では、募穴は未だ明確に反応点としては記載されていない。ゆえにこの募の字は『太素』に記されたように「膜」の字とした方が意味はよく通ずる。腹部にある膜としては横隔膜、大小の網膜と腸間膜がある。いずれの場合も体表からは深部にあるが、五蔵には腸間膜が一番近い。
挙痛論篇第三十九に「寒気、小腸膜原の間、絡血の中に客り、血泣して大経(大きい血管)に注ぐことを得ず」という文章がある。
丹波元簡は『素問識」において、本節の「募原」はこの「膜原」と同じであるとみて、「募」は「膜」の誤りであるとしている。』

「募原」の表現は以下の篇でも見られます。

霊枢 百病始生
留而不去 傳舍於腸胃之外 募原之間 留著於脈
稽留而不去 息而成積 或著孫脈 或著絡脈 或著經脈
或著輸脈 或著於伏衝之脈 或著於膂筋
或著於腸胃之募原 上連於緩筋 邪氣淫泆 不可勝論
 
霊枢 歲露論
黃帝問於歧伯曰 經言夏日傷暑 秋病瘧 瘧之發以時
其故何也
歧伯對曰 邪客於風府 病循膂而下 衛氣一日一夜
常大會於風府 其明日日下一節 故其日作晏
此其先客於脊背也
故每至於風府則腠理開 腠理開則邪氣入 邪氣入則病作
此所以日作尚晏也
衛氣之行風府 日下一節 二十一日下至尾底
二十二日入脊內 注于伏沖之脈 其行九日 出於缺盆之中
其氣上行 故其病稍益至
其内搏於五藏 橫連募原 其道遠 其氣深 其行遲
不能日作 故次日乃蓄積而作焉
※「歲露論」の記述は、瘧論の内容とかなり似通っています。
 
霊枢 邪客
地有林木 人有募筋

※ 橫連募原
テキストでは、「この横連の意味は諸注に解がなく、原書も訳出をあきらめている。ここではしばらく多紀元堅の説に従って訳しておく。」と、若干投げやりな説明をしています。
なお「募原」が腸間膜や、大網・小網だとすれば、臓器との関連が深いのも頷けますし、その延長で「橫連」となると、私は腸間膜根を思い浮かべました。

腸間膜根(『解剖学 第2版』東洋療法学校協会編 P83より引用)


其氣之舍深 内薄於陰 陽氣獨發 陰邪内著
陰與陽爭不得出 是以間日而作也
(其の氣の舍すること深く、内は陰に薄り、 陽氣獨り發す。陰邪、内に著き、陰と陽と爭いて出づることを得ず。是を以て日を間して作るなり。) 

※ とりあえず、熱発したり、平熱に戻ったりを繰り返すのは、病邪が体内の深部(裏)に入り込んでしまい、陽気(衛気)と邪気に入り込まれた陰気が正邪の闘争を行うことにより生じた熱が外に出るタイミングがずれたり、時間がかかたりするため、ということのようです。


帝曰 善 其作日晏與其日早者 何氣使然
(帝曰く、善し。其の作ること日に晏きと其の日に早きとは、何の氣の然らしむるや。)

※ 晏(テキストでは宴)
アン・エン、やすらか、たのしい、あざやか、おそい。
『説文解字』では「天清むなり」とあって、よく晴れるの意味で陽気晏温の状態。そこから、和楽の意味も。もともとは「妟」で、この字は巫女が魂振りの儀礼をおこなう意味の字。晏は恐らく、妟と安の両義を重ねたものではないか、と白川先生は推測しています。この字を「おそい、暮れる」の意味に用いるのはこの字を「日に従う」と解釈したもので、後代のものではないか、とのことです。


歧伯曰 邪氣客於風府 循膂而下 衛氣一日一夜大會於風府 其明日日下一節 故其作也晏 此先客於脊背也
(歧伯曰く、邪氣、風府に客し、膂に循いて下る。衛氣、一日一夜にして風府に大會す。其の明日、日に一節を下る。故に其の作るや晏し。此れ先ず脊背に客すればなり。)

※ 風府
督脈上の経穴。後頸部、後正中線上、外後頭隆起の直下、左右の僧帽筋間の陥凹部にとる。
正中線上で、後頭骨と環椎の間の高さにとります。
邪が入ってくる場所として有名で、様々な形で登場します。


風府(『新版 経絡経穴概論 第2版』日本理療科教員連盟・東洋療法学校協会編 より引用)

『素問』 風論
風氣循風府而上 則為腦風
 
『素問』 骨空論
黃帝問曰 余聞風者百病之始也 以鍼治之 柰何
歧伯對曰 風從外入 令人振寒 汗出頭痛 身重惡寒
治在風府 調其陰陽 不足則補 有餘則寫
 
『霊枢』 本輸
頸中央之脈 督脈也 名曰風府
 
『霊枢』 海論
腦為髓之海 其輸上在於其蓋 下在風府
 
『難経』 二十八難
督脈者 起於下極之俞 並於脊裏 上至風府 入於腦
 
『傷寒論』 辨太陽病脈證并治法上
太陽病 初服桂枝湯 反煩不解者 先刺風池 風府
卻與桂枝湯則愈

※ 膂(リョ)
『説文解字』では呂の篆文とし「背骨なり」としているが、肩や背の筋力、すなわち膂力のことをいう。

 
每至於風府則腠理開 腠理開則邪氣入 邪氣入則病作
以此日作稍益晏也
(風府に至る每に、則ち腠理開き、腠理開けば則ち邪氣入り、邪氣入れば則ち病作る。此れを以て日に作ること稍益ます晏きなり。)

其出於風府 日下一節 二十五日下至骶骨 二十六日入於脊内 注於伏膂之脈 其氣上行 九日出於缺盆之中 其氣日高 故作日益早也
(其の風府より出でて、日に一節を下り、二十五日にして下りて骶骨に至り、二十六日にして脊内に入り、伏膂の脈に注す。其の氣、上行し、九日にして缺盆の中に出づ。其の氣、日に高し。故に作ること日に益ます早きなり。)

※ 一日一夜ごとに、衛気が風府に大会すると、腠理が開いて邪気が入りつつ、一日に一節づつ椎骨を邪が下っていくと、結局椎骨全てに邪気が入っていく気がするのですが、気にしないことにしましょう。

※ 骶骨
尾底骨もしくは仙骨のこと。

※ 伏膂之脈
『甲乙経』は「大衝之脈」に作る。
『太素』は「伏衝之脈」に作る。
多紀元簡の解説。
「大衝、伏衝、伏膂は、みな一つの脈のことである。」

これを「衝脈」とすれば、以下のような記述もあります。

霊枢 歲露論
二十二日入脊內 注于伏沖(衝)之脈

霊枢 海論
衝脈者 為十二經之海 其輸上在於大杼
下出於巨虛之上下廉
 
難経 二十八難
衝脈者 起於氣衝 並足陽明之經 夾齊上行至胸中而散也

※ 缺盆
多紀元簡の解説。
「この缺盆は陽明胃経の缺盆ではない。「本輸篇」に「缺盆の中は任脈であり、名づけて天突という。」といっているので、任脈の天突穴を指していっているのである。」

椎骨に沿って下って、また上って来るという流れは脳脊髄液循環を想起させられます。

以下の部分は、冒頭で扱ったので、割愛します。
 
(☆)其間日發者 由邪氣内薄於五藏 橫連募原也 其道遠
其氣深 其行遲 不能與衛氣俱行 不得皆出
故間日乃作也
(其の日を間して發する者は、邪氣、内に五藏に薄り、募原を横に連なるに由るなり。其の道、遠く、其の氣、深く、其の行ること遲く、衛氣と俱に行ること能わずして、皆は出づることを得ず。故に日を間して乃ち作るなり。)

さて、いろいろと「どうなんだろう?」と思うところもありますが、間欠熱のような不思議な病態に対して、古代中国の人たちがこう考えた、という思考のプロセスを追体験する、ということで良いのではないかと思います。

さて、次回はさらに細かく黄帝が質問を重ねていきますので、また読んでいきましょう。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。





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