きょうの霊枢 天年篇 第五十四(1) 2023/5/25
この篇では、人体の形成と生長老衰の過程について、当時どのように考えられていたのかが述べられています。いわゆる「東洋医学的人体観」とされるものがどのように形成されていったのかを見る良い材料になるのではないでしょうか。
『素問』の「上古天真論」と合わせて読んでいきたい篇です。
それでは見ていきましょう。
黃帝問于歧伯曰 願聞人之始生 何氣築為基 何立而為楯
何失而死 何得而生
(黃帝、歧伯に問いて曰く、願わくは人の始めて生ずるを聞かん。何の氣か築きて基となり、何をか立てて楯となし、何をか失いて死し、何をか得て生くるや)
歧伯曰 以母為基 以父為楯 失神者死 得神者生也
(歧伯曰く、母を以て基と為し、父を以て楯となす。
神を失う者は死し、神を得る者は生きん)
父母(陰陽)が交わって子(人)が生じる、というのは具体的かつ抽象的に理解されていたと思われますが、この篇では母=基、父=楯として、その役割を象徴しています。
「基」は建造物の基礎を指し、上の「其」は方形の意味があるとのこと。
受精卵を考えた時も、卵子が土台となっているので「母=基」が一致しそうです。
「楯」は説文解字では「闌檻なり」とあり、てすりの意味。大きな楯を防禦用にめぐらした形を由来とするそうです。
ちなみに、『易経』では、全陽の乾為天と全陰の坤為地の次の卦、陰と陽が最初に交わる卦が「水雷屯」で、「産みの苦しみ」を表しているとして有名です。
易経 水雷屯
彖伝 剛柔始交而難生 動乎險中 大亨貞
初六 磐(盤、半)桓(遠) 利居貞 利建侯
この部分についての馬蒔の註です。
「此れ人の始終には皆然る所以の故あるを言うなり。其の始めて生ずるに方り、母を頼りて以て之が基となし、坤道物を成すなり。父を頼りて以て之が楯となし、陽気以て捍衛を為すなり。故に父母の神気を失うときは則ち死す。若し神気を守るときは則ち生くるなり。」
張志聡の註です。
「倪冲之曰く、此の篇は人の生死寿夭は皆少陰陽明を本とするを論ずるなり。夫れ陽を父と為し、陰を母と為す。人は少陰を本として始めて生ずるなり。楯は干盾の属にして四旁を扞禦する所以、陽明の気を得て能く四体を充実するなり。両精相摶す(そうはく、あいうつ)。之を神と謂う。両精は一は先天の精より生じ、一は水穀の精より生ず。相摶すとは摶聚(tuán jù)して合一するなり。先後天の精気を得て充足し、然る後、形と神と倶にして百歳を度りて乃ち去るを謂うなり。」
ちなみに、「搏」は「うつ、たたく、とる」の意味で「竜虎相搏つ」といった慣用句でも用いられます。「摶」は「タン、まるめる」の意味で、「搏」とはよく似ているせいで混同して用いられてきたそうです。陰陽がくっついて一つにまとまることをよく表している字だと思います。
黃帝曰 何者為神
(黃帝曰く、何をか神と為すや。)
歧伯曰 血氣已和 營衛已通 五藏已成 神氣舍心
魂魄畢具 乃成為人
(歧伯曰く、血氣已に和し、營衛已に通じ、五藏已に成り、神氣心に舍り、魂魄畢く具われば、乃ち成りて人と為る)
馬蒔の註。
「此れ上文を承けて、人の神を得るときは則ち生くる所以を言うなり。人に血気あり、皆已に融和す。人に営衛あり、皆已に通利す。心の志を神を為す。皆心に舎す。肝の神を魂と為す。肺の神を魄となす。皆已に畢く具す。此れ則ち人の人と為る所以なり。而して此を得るものは則ち生くるなり。」
家永先生の註。
「『素問』上古天真論には、女子は七歳きざみ、男子は八歳きざみで人の生理的成長の過程が描かれている。
『論語』為政第二第四章には、十五志学から七十不矩までの精神的履歴の叙述がある。
『礼記』曲礼上には十歳きざみの士大夫の社会的経歴が記されている。
以上の文献により、人の生理、精神、社会生活の推移、履歴が明らかになる。」
黃帝曰 人之壽夭各不同 或夭壽 或卒死 或病久
願聞其道
(黃帝曰く、人の壽夭各おの同じからず。或いは夭、壽、 或いは卒かに死し、或いは病むこと久し。願わくは其の道を聞かん)
歧伯曰 五藏堅固 血脈和調 肌肉解利 皮膚致密
營衛之行 不失其常 呼吸微徐 氣以度行 六府化穀
津液布揚 各如其常 故能長久
(歧伯曰く、五藏堅固にして、血脈和調し、肌肉解利し、 皮膚致密にして、營衛の行、其の常を失わず、呼吸微徐にして、氣、度を以て行り、六府穀を化し、津液布揚し、各おの其の常の如し。故に能く長久す)
※ 肌肉解利 肌肉の間に気が潤滑に通り、滞ることが無い様子。
※ 呼吸微徐 呼吸の調和がとれていて、粗くもなく、速くもないこと。
ここまでで、人体の構成と働きの要素として、以下が挙げられています。
長生きするためにはこれらが円滑に作用することが必要なのでしょう。
・血気の調和
・営衛の運行
・五臓と六腑
・肌肉と皮膚
・呼吸
黃帝曰 人之壽百歲而死 何以致之
(黃帝曰く、人の壽百歲にして死するは何を以てこれを致すや)
歧伯曰 使道隧以長 基牆高以方 通調營衛 三部三里起
骨高肉滿 百歲乃得終
(歧伯曰く、使道隧くして以て長く、基牆高くして以て方、營衛を通調し、三部三里起こり、骨高く肉滿つれば、 百歲にして乃ち終を得る)
前回の五変篇で、岐伯学派はあまり人相について触れていないのではないか、と考察しましたが、そんなことは無かったですね。
お詫びして訂正いたします。
※ 使道隧以長 テキストでは「鼻の穴」。楊上善の註で「使道とは鼻の穴で気が出入する道である」としています。後代の医家もみな「使道」と読んで「使道隧(ふか)くして以て長く」と読んでいますが、先生から「道隧(どうすい)をして以て長からしむ」と読むほうが自然ではないか、というご指摘を頂きました。
さて、馬蒔の註です。
「使道とは水溝なり。使道以て長し。面の地部を基と為し、耳は蔽と為し、牆と為す。乃ち高くして以て方なり。営衛の気皆已に通調す。而して面の三里は即ち三部なり。皆已に聳起す。其の骨高く其の肉満つるは百歳にして終わりを得る所以なり。」
少し長いですが、張志聡の註です。
「此れ人は先後天の精気の充足、営衛の通調、骨肉の豊満を秉りて長く其の天年を享くべきを総論するなり。使道とは血脈の道路にして、本輸篇の所謂間使の道なり。蓋し心包絡は血脈を主るなり。隊は行列なり。長は環転の端なきなり。此れ血気充足し序に循って流通するを言うなり。土基高くして以て方とは肌肉厚くして四体に充するなり。脈道流長、肌肉高厚なるときは則ち営衛通調するなり。三部とは形身の上中下なり。三里とは手の陽明の脈なり。皆起発して平等なるなり。骨高きとは少陰の気足るなり。肉満つるとは陽明の気盛んなるなり。此の如き者は寿の徴なり。倪氏曰く、心包絡の主脈は三焦を包絡す。乃ち腎臓生ずる所の気出でて心下に帰し、有形の臓腑となりて血脈を主る。此れ先天の精気なり。基牆とは土基厚くして四壁堅固なり。此れ後天の水穀の精気なり。」
この部分は、後代の医家でも解釈がいろいろと分かれているので、意味がとりにくいです。
長生きしやすい「顔の形」がある、ということで、相学の影響を感じられる部分だと思います。
さて、続きの後半は次回になります。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
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