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12年前の今日のこと

 どうもこんにちは、たくさんです。今日は3月11日です。普段ならば『ARC WORLD TOUR FINALS 2022』に熱狂しているはずの私ではありますが、本日はテレビなどでも報じられているように12年前に東日本大震災が起こった日でもあります。

 死者・行方不明者を合わせて約2万人弱の方が犠牲になったあの未曾有の大災害。実は当時、私は被災地域で生活しており幸いにも大きな被害は無かったものの間近で震災を体験しております。

 今回はそんないち被災者であった私の目線で当時の出来事を振り返ってみたいと思います。人生で二度は無いであろう強烈な体験ではありましたが、それでも時間とともに記憶は曖昧になってきます。備忘録として当時のことを書き残しておければなと思った次第です。もしよろしければお付き合いいただければ幸いです。

1.2011.3.11 14時46分

 当時の私は太平洋側の海にほど近い場所に住んでおり、当日は平日だったことから普通に会社で働いていました。そして、地震が発生した時に私が何をしていたかというと、横浜支店の方と電話でケンカです。

 とあるクレーム発生の原因がどちらにあるか、という弊社ではよくある醜い責任のなすりつけ合いでした。

形勢は6:4でこっち有利だったのですが…

 そうして電話している最中に揺れが起こり、どんどん強くなりました。経験したことの無い大きな地震に内心ビックリしつつ、それでも受話器を離さなかった私でしたが、すぐに電話線が切れたこと、オフィス内の観葉植物や棚が倒れ始めたことからこれはただ事ではないと察知しました。

 私以外の同僚は机の下に隠れましたが、「倒壊の恐れのあるものは無いので、さっさと外に出た方が良い」と考えた私は皆の行動に倣いませんでした。私は壁にかかっていた非常用のヘルメットを被り、事務所のドアを開けてレンガで固定し広くて安全そうな会社の駐車場まで走りました。

 かなり揺れが激しく立っているのが難しかったため、私は駐車場のアスファルトに座り込み、唖然としながら周囲の状況をただ見ていることしか出来ませんでした。

目の前の光景にはどこか現実感がありません

 社内倉庫の商品が倒れ、駐車場の裏にある家の瓦が飛んで行き、電線が激しく揺れる様を見ながら「今日は片付けを終わらせて帰るまですごく時間がかかりそうだ」と、その時の私はタバコに火を付けながらどこか他人事のようにそんなことを考えていました。

 その後、揺れが収まり社内の状況を確認しました。社屋自体の損害はそれほどでもなかったのですが、停電・断水状態になっており業務続行は不可、携帯電話も繋がらず誰かがラジオで得た「津波被害がすごい」らしいという情報も半信半疑でした。

 私は会社から徒歩一分の距離にあるレオパレスで一人暮らししており、会社でも下っ端の立場でした。責任感のかけらも無かった私は、地震で破損して売り物にならなくなったサッポロポテトのバーベキュー味(倉庫にあったやつ)をボリボリと食いながら、「今ごろパチンコ店では出玉を交換出来なくなり激高した客が店員に詰め寄ったりしているのだろうか」などと考えていました。

サラダも好きです

 正常性バイアスとでもいうのでしょうか。その時はここから車で5分もかからない場所まで津波が迫って来ることになるなんて、思いもよりませんでした。

2.2011.3.11 夜~3.12 朝

 それから家族がいる同僚はすぐに退社、管理職は会社に残り社外にいて安否の確認が取れない社員の帰りを待っていました。

 そんな中独り身の私は気楽なものでしたが、とはいえ家に帰るのは心細かったため会社で発電機を使って動かしたテレビを眺めていました。

トラウマ

 そこで、私が考えていたよりもよっぽど事態は深刻だということ、明日以降どうなるか誰も分からないということに、今さらながら恐怖を覚えました。

真っ暗になった部屋で観た、このテレビの映像は今でも覚えています

 一度毛布を取るために自室に帰った私は、そこで食器が割れ漫画が散乱している部屋の様子を見て嘆息すると、土足で室内を歩き回り毛布の他にも必要そうなものを見繕いましたが、真っ暗な中ではそれも難しく電気が無いだけで人はこんなにも不便になるんだということを初めて理解しました。

 そして会社に戻る道すがら、ドブのにおいが微かに漂う中、真っ暗な道を歩き家に向かう人達とすれ違いました。電車が動いていないことから、会社や学校から家に帰るだけでも苦労している人が多かったのでしょう。

 そのとき、ふと空を見上げるとこれまで見たこともないほどきれいな星空が広がっていることに気が付きました。

電気が消え車もほとんど走っていないからなんでしょうね

 とてもきれいな星空でしたが、それは非日常が目に見える形として表れたかのように思えた私は、じっくり鑑賞する気分にはなれませんでした。そして会社に戻ると、そのまま応接スペースにあるソファに寝転がりすぐに眠りに落ちました。

 翌朝、会社で目覚めると同じように会社で寝泊まりしていた総務課長が事務所の外にある自販機の災害救援ベンダーの仕組みに四苦八苦しながらも缶コーヒーを取り出してくれました。

災害救援ベンダーにはとても助けられました

 ぬるいコーヒーを飲みながら、私はその時に近所に住んでいた姉がもうじき出産予定日だったことを思い出しました。そして近場に住んでいる同僚や友達の安否も気になったため、各々の状況を確認しにいこうと思いました。

 ちなみに会社ではこの日に自宅待機の指示が出されました。かろうじて支店長が本社と連絡を取ることが出来、指示を仰いだ結果です。また、缶詰などの食料品を中心とした救援物資を運んできてくれるとのことで、実際この救援物資のおかげで私は相当余裕のある被災生活を送ることが出来ました。感謝しています。

3.3.12 朝 ~ 昼

 私は姉の家に向かう際、停電の影響でほとんどの信号は止まってしまっていたこと、ガソリンは温存していつでも車を動かせるようにしておく必要があると思ったことから、姉の家まで十数kmある道のりを自転車で移動することにしました。

 姉の家に向かう途中、ついでに同僚宅に立ち寄り、事情を説明すると「妊婦さんに渡してくれ」と野菜などの貴重な食料を分けてくれました。お礼を言ってそれらをバッグに入れて背負いこみ、次いで別の同僚の家に向かう途中、私は衝撃的な光景を目にしました。

 それは津波で流されてきた土砂やがれきによって塞がれた道路でした。

その道の先は更に酷い状況になっていたみたいです

「こんなに近くまで津波は来ていたのか…」

 散々昨日から「津波」という言葉を聞いていてもピンと来ていなかった私でしたが、ようやくそれが真実だったことを知りました。ドブと潮が混ざった強烈なにおいが周囲に漂う中、大きな木やがれき、そして所々に大きな岩が混ざっていたそれらに近寄った際、私は思わず声を上げました。


 岩だと思ったそれは、人の頭でした。

 土砂やがれきなどと共に流され亡くなった、人間でした。


 今思うと、私の脳は私にそれを人というよりもモノとして認識させようとしていたかのようでした。

 それほど動かなくなった、生きていた人だったものたちには現実感が無く、そしてこれほどのことが起きているにも関わらずこの場に警察も救急もいない、それが何を意味しているのかをおぼろげながら理解した私は、それらから目を背け必死で自転車のペダルをこぎました。

 信号の消えた交差点で必死に手信号で交通整理をする警察官の方、公衆電話に長蛇の列を作って並ぶ人達、公園で水を汲む家族、普段は決して見ることの無い光景を横目にしながら長い道のりを越え、私はようやく姉の住むマンションにたどり着きました。

 停電で動かなくなった自動ドアをこじ開け、姉の住む階まで階段を駆け上がりドアを何度も叩くと、姉と姉の旦那さんが出迎えてくれました。幸いにも姉夫婦は無事だったので、私は色々と持ちだしてきた物資を渡すとそのまま友達の家を回ることを伝えその場を去りました。

4.3.12 昼 ~ 夜

 そこからまず私は友人であるG君の家に向かいました。その時ちょうどG君はやや海沿いの会社に務めており不安だったからです。G君やその家族は無事で、今回の大地震について興奮しながらお互いどうしていたかを話し、その後共に他の友達の家に行ってみよう、という話になりました。

「なんかお前、崩壊後の世界のセリスみたいだなw」

 こんな時もゲームのことを忘れないG君に苦笑しかけた私でしたが、「崩壊後の世界」という言葉はひょっとすると的を射てるのかもしれない、と思えて素直には笑えませんでした。

仲間を集めに行くたくさん(とG君)

 その後に向かった別の友人宅でカップヌードルをごちそうになったり、電気やガス、水道が止まり店も閉まっていたことなども話したりしました。その他の友人も無事なことが確認出来たので、日の落ちる前には皆と別れ、私は住んでいたレオパレスに戻りました。

 とはいっても電気が点かず、何も出来ないことは変わりませんでしたので、ロフトに敷かれた布団にくるまりただボーっと過ごすだけです。相変わらず部屋はしっちゃかめっちゃかでしたが、なぜか片付ける気は微塵も湧いてきませんでした。

 ただ、その日福島の原子力発電所に関するラジオの報道を聞いたせいか、その他のものと一緒に部屋に転がっていた「炉心融解」のフィギュアだけが、嫌に目に付いたような気がします。

 大好きだったはずの曲をモチーフにした、大好きだったはずのフィギュアが、今となっては安っぽく見えて仕方ありませんでした。

これも今買うと万越え、マジか

 そして日が暮れ、出来ることが無くなって早々に寝ようとした私でしたが、踏切の音がうるさくて中々寝付けませんでした。私の住んでいたレオパレスは線路沿いにあり、部屋の窓から見える位置に踏切がありました。

 それが地震によって装置が故障しているのか、深夜もずっとカンカンと踏切の音が鳴り響いていており、更に
「電車が来ます、すぐに線路から出てください」
という機械音声による非常用アナウンスが流れ続けていました。

闇の中、ひたすら鳴り続ける踏切

 その声はとても無機質で、単純にうるさいだけではなくどこか恐怖心を搔き立てられるものでした。とてもじゃないけど寝られそうにもない、そう思って寝返りをうつと、不意に部屋のドアをドンドンと叩く音が聞こえました。

 それはそれで怖かったのですが、恐る恐る深夜の来訪者を確認すると、なんとそれは昼に一度別れたはずのG君と地元の友達J君でした。

「電気が無いと暇だからさ、駅前の方でも見に行かない?」

 正直、こんな夜中にすることじゃねえだろと思いましたが、どうせ家にいてもこんな状況です。私はありがたく二人について行くことにし、J君が運転する車に乗り込みました。

「今日、駅前のパチンコ屋は根性で店を開けてたらしい」

「電気はすぐ戻るらしいがガスと水道は遅くなる」

「プロパンガスは○○をいじると使えるようになるんだって」

「水道局に行くと水をもらえるみたい」

 ネットが使えないこういう状況下では、人づてに情報を得るしかありません。人付き合いの得意なJ君が仕入れてきてくれた情報はどれも非常にありがたいものでした。

 そうしている内に駅前に到着しましたが、いつもは華やかな街並みも真っ暗で人気はほとんどありませんでした。当然どこか店がやっているわけでもないので、ざっと一周して早々に引き返しましたが、帰り道にとある一画だけでしたが、街灯が一斉に点灯する瞬間がありました。

街中なのに自動車以外の灯りはありませんでした

「今も復旧作業をがんばってくれている人がいるんだな」

 人は、自分のそばに灯りがあるだけで心強くなることを知りました。復旧作業をがんばってくれている方へ感謝しながら、私たちは信号の消えた道路を走っていくのでした。

5.3.13 昼

 次の日、早朝に目覚めた私はすることも無いので食料を求めて会社へ向かいました。同じように会社に集っていた同僚と朝の挨拶をしサンマの缶詰を食べていると一度顧客の状況を確認しに行かないか、という話の流れになりました。

 電気が完全に死んでいるこの状況下で仕事をしている会社は無いと思われましたが、何もしなかったことで後々弊社の責任問題に発展するような可能性はゼロではないと考えたからです。

 私と同僚二人で車を運転し、ひとまずは顧客が集中している地区である仙台空港周辺の工業団地へと向かうことにしました。

震災当時の仙台空港ターミナル

 信号が消えガタガタになった道路を進み、なんとかたどり着いた先で見た光景は、津波による甚大な被害を物語っていました。

 まず、そこら中に津波で流された自動車が散乱していました。それらを「トモダチ作戦」で日本に訪れていたアメリカ軍の部隊が重機でひたすら端に寄せているのが目に入ります。

 日本人なら明らかな外傷が無い車両ならどうするか迷うと思うのですが、彼らは迷いなくスクラップとして扱っているのが印象的でした。

そのため非常にハイペースで作業が進んだそうです

 また、仙台空港の周囲は田んぼ地帯でもあるのですが、まだ3月なのに注水されたような状態になっており、田んぼの間にある道路を自衛隊の車両がひっきりなしに行き来していました。また、空港周辺は封鎖されており一般車両は一定の場所から先へは近付くことが出来ませんでした。

奥に見えるのが空港です

 そして、そのエリアにあった建物は全て津波による被害で壊滅していました。車や木などのがれきが散乱し、敷地内もめちゃくちゃでした。

 そんな中、私たちが車を走らせていると手近な場所にあった顧客の敷地内に人影が見えました。そのため、車を停めて歩いて中に入りその方に状況を聞いてみることにしました。

 たくさん「どうもこんにちは、○○(会社名)の者なのですが…」

 そこに居た人「・・・・・・・。」

明らかに警戒した素振りで口すら開かず、足早に去って行ったその男は結論から言うと顧客の会社に属する人間ではなく、ただの火事場泥棒でした。

 そう、仙台空港周辺の工業団地はコンビニやスーパーの配送センターがひしめき合っており、それら倉庫の物資を略奪しに訪れる輩が多く存在していたのです。

こういう光景も実際見かけましたね

 倉庫や倉庫内から津波で流された物資を盗むだけでなく、流された車からガソリンを抜き取ったり、自販機をこじ開けてお金を奪ったり、ひどいものでは津波被害にあった方の遺体の指を切り落とし、指輪を盗んでいたりするような人もいたようです。

 中にはドラム缶で焚火をして暖を取っている人たちもおり、そんな世紀末な光景は、はからずもG君の言っていた「崩壊後の世界」という言葉がぴったりなのではないかと思えました。

 結局、その後どうにか敷地内の片付けをするために訪れていたいくつかの顧客に会うことが出来、当面は休業となることも確認できました。

 しかし、配送拠点がこんな状況ではスーパーやコンビニが復旧するにはどれだけの時間がかかるか分かりません。不安に思いながら私たちは弊社へと戻るのでした。

6.3.14~

 それからの私は、仕事が出来なくなったのをいいことにG君の家に入り浸り、共に買い物に行って行列に並んだり、J君と共に車であちこちの様子を見て回ったりしていました。

 食べるものにも困っていた方もいる中で不謹慎だと思われるかもしれませんが、私にとってはタバコ花粉症の薬が無いというのは割と死活問題だったため、個人商店やコンビニなどを巡ってそれらの物資を調達して回っていました。

 夜は幸いにも発電機を持っていた会社の同僚の方にお風呂に入れさせていただいたり、会社へ行けば本社からの救援物資をあてにすることが出来たため食べ物に困ることもありませんでした。

 そして、何日かするうちに電気やガス、水道も復旧しネット回線も繋がるようになると、私はちょうど発売されたばかりのMVC3を朝から晩までやり込む生活を送りました。

UMVC3の前のやつですね

 これも不謹慎だと思われることだったかもしれませんが、少し外に目を向けると、

近所のボーリング場が死体安置所になっていたり、
乗用車からガソリンを抜いて販売している人がいたり、
友達の奥さんが亡くなった話を耳にすることになったり、

と、まともな状況ではありませんでしたので、引きこもってゲームに没頭するのは私の精神の安定を保つためにも必要なことだったのではないかと思っています。

 そうこうした日々を過ごしている内に会社の電気も復旧し、ニートのようだった私の生活にも終わりが訪れました。

「”たくさん”!!すぐ会社に来い!!」

 前述した通り、会社から徒歩一分の距離に住んでいた私はすぐに招集され、電話のコール音が鳴り止まない職場へ向かうことになるのでした。

7.おわりに

 改めまして、東日本大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。

 私自身は、被災地真っただ中に居た割には自分の身一つを守ることだけを考えていれば良かったですし、友達や同僚にも恵まれ勤めている会社に助けられたこともあって、それほど大きな苦労をせずに済んだのは幸いでした。

 しかし、当時はあれだけ鮮烈に思えた記憶も、今になって思い出そうとすると曖昧な部分も多いです。今のうちにこうして書き留めておいて良かったのではないかと思います。

 それでは、ここまで長文にお付き合いいただいた方はありがとうございました。東日本大震災のエピソードの一つとして参考になれたのならば幸いです。次回は別の記事でお会いしましょう、ではまた。

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